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8.17 そして眠る

AM5:20
もう起きる時間。夜中に目が覚めたのに再び入眠できなくて、解決したはずの、或いは終止符が打たれたはずのことを考えてしまって、そのまま朝を迎える。不毛で可愛い。

同じ言葉しか浮かばなくなってきたのは、言いたいことを全て吐き出したのだという証拠でしょうか。それとも主張など最初からなかったのだろうか。書くのをやめたから考えるのをやめたのではないことは、確か。きっとこの、ずっとどこかにある気持ちはこの先も、自分が向き合い、浄化させてやるしかないとわかっている。

いろんな欲がなくなってしまって、それで言いたい言葉がなくなってしまった。これは誤認識だろうか。まだ欲は少なくて、このままだったらどうしようなどと無駄なことを考える。
リビドーは自分でどうにかできるものではない。枯渇するか、甘えるか。毎日笑っていたいだけなのに。

この半年くらい、特にあなたの幸せについて考えることが多い。ただあたしが考えたところで、あなたの幸せはあなたにしか感じられないと思う。それをあたしが決めることではないと、ずっと思っていた。
可愛くて愛されるべき魂、愛されてきた魂、どうか幸せにあってほしい。賑やかに、穏やかに。

1人の将来のことであれば、自分で色々と決めていける。相手の未来のことは、相手にしか、または2人でしか決めていけない。だけどそれは今までも、あれがいいとかこれがいいとか、敢えて図や説明を書いて決めることはなくて、2人でなんとなくこちらかもと思いながら歩いてきたはずで。いつも、変わらなかったわけで。だからどうか、この先もそれを変えずに、いろんなことを感じていろんな言葉で歩く道を選んでいきたい。

首輪が欲しいと言われて、欲しいというならばと深い意味もなく、なんとなく買ってつけてあげたあの頃に比べて、2人の散歩の仕方は変わってきたと思っていた。歩き方だって、変わってきたと思っていた。あたしの持つリードの先があなたに物理的に繋がっていなくても、あなたが立ち止まってたまにあたしを仰ぎ見る、その視線が関係性の全てになる瞬間もあった。
この散歩には、目的地はないし、なくていい。ずっと、今も、そう思っています。

あたしに興味がなく、あたしのやること、あたしの書く文章にすら目を通さないのに、自分はあたしに興味を持ってほしいと叫ぶ人がたまにいる。とても苦手だ。何を知れと言うのだろう。

うんと若い頃は18歳で死にたいと思っていた。いろんな経験を経て、死にたいと思わなくなったが未だに消えたいと思うことはある。
あたしひとりが消えても、世界は何も変わらないし、困ったり悲しんだりする人がいたとしても、それも何年も経過すればきっと心の中に棲まうことで解決するんじゃないかって。でもそんなに簡単にはいかないことを、これもまた、いろんな経験を経て知っている。
消えることの方がずっと、解決しないことを。心に蟠りが残り、思い出にはなってくれないことを。

自分のことを馬鹿だと思いたくない。それはあたしに関わる誰かのことも馬鹿馬鹿しいと思いたくないからだ。あたし以外の人の気持ちを否定したくないのに。稀に馬鹿馬鹿しくって仕方ないことに陥る。己に冷めてしまうのかもしれない。

自分の好きなことや好きな行為、興奮することをたくさん伝えてきて、自分のアピールは上手で褒めて欲しがるのに、相手に対して何かをしてあげたい・何ができるか、のアピールが下手な人は多い。相手のことを思いやれ、とまで言わないけれど、相手とどんな関係になりたいか、相手にとってどんな自分でいたいかを考えてほしい。それは自分を大事にすることでもあると思う。性愛に踊らされないでほしい。あたしもまた、自分を大事にしたいから。
あたしは誰かの、あなたの、止まり木でありたいし、灯台でありたい。

愛してるから泣き顔も、どんな顔も、見たいけれど、愛してなければ何もしたくない。

今までどうやってSMプレイをしていたっけと考える。正確には「どういう心持ちでSMプレイをしていたっけ」。自分の心の中は炉心で、それは核融合のようだったのかもしれない。ふつふつ、あるいは爆発的な熱量が、あたしの気持ちを震わせる。では、そんなふうに思えないそこまでも燃料のない相手には、どうやって手をあげ、声を上げ、髪を掴んで、尻を叩いてきたのだろうか。相手に煽られるまま、もしくは何かを割り切り、やってきた行為だったのだろうか。
愛がなくてもセックスはできて、性的に高まるように、心を通わせていない相手でも上目遣いで足元に侍られたら、興奮してしまっていたのだろうか。どうかそれを教えてほしい。思い出させてほしい。

共感もしたいし、悲しかったね辛かったねと抱きしめたいし、嬉しかったね楽しいねって微笑みたい気持ちもあるし、その気持ちはすごくわかるよと言いたくなる時もたくさんあるけど、簡単に「わかるよ」は言いたくない。「知ってたよ」も言いたくない。自分とは違う他人の誰かの気持ちがわかるだなんて、あまりにも傲慢だと思うから。

見返りを求めることも、相手の感情も無視して、空白に対し愛情をじゃぶじゃぶとそそぎ、そのことに疑問も持たず安心して愛情が溢れていくのを見て笑顔になれる人間でありたかった。それはもしかしたら、嫌煙されるかもしれないし、自分勝手で独りよがりで迷惑だと言われるかもしれない行為だとしても、自分本位で動いてみたら、たまには何かが変わっていたかもしれないのに。そう思う過去がいくつかある。
だけどね、ふたりで一つという考え方において、相手の気持ちを考えないことに、意味があるとは思えないから。あたしはそれをしたくないのだろうな。

いろいろと泣きそうだね。泣いていいね。雨も降るし、花に嵐のたとえもあるし。さよならだけが人生ではない、きっと。

しばらく立ち止まります。自分のため。愛しくて可愛い魂のために。きみのためにしてあげてるんだよ、だなんて、一度も思ったことがない、と気がついて、無償の愛とはこういうことなのだろうかと思うことがある。あなたはどんな大人になるのだろう。その垂れ目の魂のために。
無垢とはなるほど、どうやっても強いことなんだ。疑わないとはなるほど、愛されることなんだ。

またすぐにあの場所で、大遊戯場で、楽しく笑うつもりでした。だからそもそも、この先もTwitterのアカウントを完全に消すことは考えてはいなかった。少しばかり旅行にでも出かけるつもりの、一時的な心の退去。告知もせずにカバン一つで扉を閉めたりしたので、結果的に色んな方に心配の声をいただきました。申し訳なくてそして嬉しかった。
踊り舞う言葉を、自分のものだけにしたくない感情を、知って欲しかったのかもしれません。
そう考えるとあたしは承認欲求の塊なのですが、それでよかったなと今となれば思います。
もうすぐ帰ります、と旅行先から絵葉書を出して、帰路につく。そんな気持ち。

足を止めて考えたこと。
生きているから想うこと。
書き留めることで呼吸ができること。
静かに語るけれど、本当は心がひりひりとして仕方がないこと。
すぐに泣きそうになること。悲しいこと。虚しいこと。どれだけ時間を費やして考えても、取り戻すことはできないこと。毎日、意味もなく心配し、意味もなく愛おしいと思え、意味もなく抱きしめたくなること。泣き顔と同じだけ、笑っている顔も、淡々と語る表情も見たいこと。できればこの先も、そうでありたいこと。何度も考え、打ち消し、何が最善か考えること。
強がって生きています。笑い飛ばさないと、やっていけないから。本当は弱いことも知っています。何が弱さかわかっていることも大事だから。本当に何も考えていない時もあります。人生は一度きりだから。楽しいかもと思ったことに忠実だから。だけど、誰かに救われたい救ってほしい救いたい、たまに袋小路で悩みます。大したことじゃない、いつか、本当にそう思えるし、辛かったと心から本音が言えます。
お元気でいてください、どうか。
あたしが大好きだと思えた、美しいあなた。そう思うことで決別し、新しいフェーズで生きていく。非日常のようで、これが日常。

誰にも刺さらなければいいな。
この本音のすべてが。

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