8.31 終わりを思う

夏も終わる。8月は夏の代名詞で、9月なんてもう秋だ。カレンダーをめくるのと同じように、夏はめくられ、そして落ちる。

毎日何かしらの言葉を吐き出している。この行為は「千と千尋の神隠し」に出てきた、カオナシの行動のようなもの、と自分では思っている。欲望を欲望のまま体の中に溜め込み、悪いものでいっぱいになった体から、本当に欲しいものは得られないのだと現実を知り、絶望して一気に言葉を吐き出す。出し切ったらそこで、終わりなので、いずれはあたしの体も思考も透けて、「あ…」しか言えない生物になる。生物というか、厄病神様でしょうか。それともあれはみんなのお腹の中にいる神さま?

なのでこのnoteも、もう随分とあたしの中のカオナシは吐いて吐いて吐き続けて、すっかり細ってしまい、いよいよ最後に蛙を吐き出せば元に戻ると思っている。それでも毎日、思ったことを書き、日常を書き留める。日常ではあるが、この日常は二度と来ないものとして。アップロードしなくても、少しずつ書いている。なので日付が飛んでいるのです。カオナシとは「人間の欲そのもの」だと思うので、やっぱりあたしはカオナシなのです。

夏が終わったと思うのは、毎日5時に起きる時。もういよいよカーテンの向こうが薄暗い。夏休みが始まる前はあんなに明るく紫外線が早朝から容赦なく、朝の散歩をする気にもなれなかったのに。気温が高いままなのに、もうすっかり秋の匂いがし始めた気がするのもまた、太陽の南中高度が変わりつつあるからかもしれない。大人になればなるほど季節に敏感になる。

幼い頃の親子関係がトラウマで「人を心底愛せない」「誰のことも本気で好きになれない」と漏らしてくれた男の子と、彼が20歳になったばかりの頃から年単位でやりとりを続けている。相手に心を開くのがとても時間がかかると彼は嘆くが、あなたの相談相手は共感しかできないしアドバイスもできないから、相談する相手をそもそも間違えてるよと、こちらも年単位で言い続けている。あなたからはたくさんのことを教えてもらいました、と言われたけれど、あなたが1人でどんどん気づいていって成長してるだけ。我々は歳の離れ過ぎた、ただの類友。

「常に三者であれ」と教えられてきたから、相手の痛みの原因を調べて取り除く努力をする「医者」、誰にも負けないほど深く知識をつけ探究心を忘れない「研究者」、よりよく自分を魅せようとする「役者」でありたい。そのために何をしなければならないか考えていきたい。毎日怠惰に生きてごめんなさい。

別れたり振られたりした男の数だけピアスの穴を開けている友人がいる。彼女の性格も相まって、それを聞いた時に手を叩いて喜んだ。すごくいい。ピアスの穴ひとつひとつに意味があって、男の名前をつけているという。見えないものは忘れる。質量を持たないものの崩壊とは忘却と同意だ。だから名前をつけてピアスをつけて忘れないようにする。質量の伴うものにする。見えるようにする。他者の顔を覚えられないという特殊な障害をもったあたしたちには、そのくらいの質量は必要なんだよ、きっと。

音楽を聴くのが大好きなのに、音楽聴くのが疲れる、と感じる時期がある。疲れてしまって、再生のボタンをタップするのもしんどいし、聴こえてきた音楽に煩わしさを感じるし、音符も歌詞も追いかけられないで置いて行かれてしまう気がする。気持ちが落ちている時は音楽でも聴き流していればいつか気持ちが上を向いてくるからね、とあなたは過去に言ったが、どうもあたしはそれが難しいらしい。だから、音楽を自然と流し始めた時は、ようやく脳の疲れが取れてきたんだなと思う。情報過多になりたくないのかもしれない。隣に置いていたい時と、少し後ろに置いていたい時。共にあるということはそういうことでいいのかも。

誰かのことを、許す許さない、というのはあまりない。話し合いをして、妥結した時点で、もう終わったことだし、実際に過ぎたことに難癖を付けても意味がないと思っているから。あとは自分の中でだけの問題なのだ。自分自身に怒りの多いあたしは、自分を納得させるまでに時間がかかる。その過程で、悲しくなることも悔しくなることも、どうしてもあるから。

若い頃に、無駄なくらい不特定多数とセックスをしていた。毎日適当に相手を探し、夜の予定を埋め、一度会った人と二度と会わないことも、名前も知らないことも、山のようにあった。冷静になった今ではそれが自傷行為の一環であって、同時に性依存のような状態に陥っていたのだと思う。精神的に不安定になるとセックスの相手を求め、終わったら終わったで虚無を抱え、また新しく相手を探す。それを繰り返していたし、母親くらいの年齢の精神科医に「自分を大事にして」と言われても、大事にした結果がこれなのだけれどな、とどこか他人事のように思っていた。
虚無の中にSSRIを投薬して、自助努力でその状態から脱却し、今ではその精神科医と同じ年齢になった。精神的な不安定さは後遺症のように未だに抱えているが、若い頃と違い、不安定になると欲求という欲求が全て消えてしまうようになった。水を失った植物のように、首を垂れる。悲しいことがあってもセックスに溺れて悲しみを忘れてしまいたい、という自傷的な気持ちにはなれない。爆発的で悶えるようなあの苦しみを、また味わいたいと思ってしまう。感情を味わいたいだけでセックスはしたくない。困った。

いろいろなことを疑うのは心が疲弊する。だから、自分は堂々と生きていたい。相手に疑わせたくない。相手の心を削ぎたくない。

都会の方が暮らしやすいと思うのはあたしが物を知らない田舎で育ったからだと思う。都会は選択肢が多くて助かる。

みんな自分勝手だなと思うところ。
傷ついた、と言ってるのに、謝れば全て元に戻ると思っているところ。
年齢や身長などのどうしようもない制限に対して、ごねたらなんとかなるんじゃないかと思っているところ。
会わないって言ってるのにとりあえず会えばどうにかなると思っているところ。
言葉と同じくらい行動が大事なのは確かなのだが、相手の言い分には寄り添わないところ。自分勝手だ、あたしもあなたも。

自分にとってものすごく意味のある何日間だったとしても、同じ気持ちを相手も共有できているはずと思うのは危険だ。言葉や文字で伝えなくても伝わっているはず、だなんてそんなのは、本当に高慢ちきであったのだ。

誰が気持ち良くなるためのSM? どこが気持ちよくなるためのSM? どちらが気持ち良くなるためのSM? なんのためにするSM? たまに本当にわからなくなる。性的な嗜好を満たすため、そして同じ嗜好を持った相手とパートナーシップを築くため?

玄関マゾの話。
自宅に呼んでも、どうやっても玄関から先に入ろうとしないマゾがいた。自分のような身分のものはここで充分だと、彼は玄関で土下座したし全裸にもなった。それは最初に自宅に呼んだ時から3回目ほど続いた。彼は薄暗い玄関の電気の下で涙に濡れた声で「これ以上は入れません」と言った。その理由を、後に彼の口から直接知る。彼はあたしに年齢を偽っていて、その後ろめたさから自宅に入れなかったのだという。嘘をついていました、黙っていましたと言われ、情に絆された部分もあって許してしまったけれど、嘘をつかれていたとわかった時に、あたしは彼と関係を断ち切るべきだった。後悔の少ない人生の中で、それは強く強く、自分への教訓のように思っている。現実の不誠実をプレイに持ち込んで、お仕置きを受けて無かったことにするのは好かない。
甘い主従関係にあって、だけどその甘い中でずっと苦い気持ちを抱えてたことも事実だった。許せないことたった一つ、それでも喉の奥に刺さった小骨と同じ。ずっと続く不快感。
嘘をつかせないといけないような関係に、なんの実りがあるものか、という疑心暗鬼と自戒。

自分の中で気持ちと行動が乖離している。気持ちが乖離しているのかもしれない。優しくしたい、何かしてあげたい、抱きしめたい気持ちと、突き放したいもうどうでもいい気持ち。矛盾の極点に立ち止まってしまうと、もうそこでどんな気持ちになったらいいかわからなくなって泣きたくなる。この泣きたい気持ちを発散するために、サディストになりたかったのか、あたしは。八つ当たりのようなことをして、性的に興奮するなんて。

考えなんて、一生まとまらないし、まとまらなくていい。書くことがセラピー、ってまさにそう。あなたが見てるのは真実かどうかなんて、わからないものね。これが本当の本音なのか、誰もわからないように。

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