見出し画像

8.21 暑さに酔う

鹿児島に飛ぶ。
割と無理なフライトスケジュール。それでも行きたい理由があった。
きっと本名で呼ばれることより、Twitterのユーザー名で呼ばれた回数の方が多かっただろう、鹿児島。なぜかあたしにとって、そういう場所。

令和の時代においてもまだ、男尊女卑の思想が根強い鹿児島において、女尊男卑なCFNMのSMをしたいと思い始め、相手探しを始めたのが7年ほど前。サディストな女性は少ないどころか、SMバーもない鹿児島が、あたしにとって原点と言えば、原点なのかもしれない。その7年前と今のあたしでは考え方も知識も大きく変わって、それを成長と呼ぶかどうかはわからないが、変化していることは嬉しい。歩き続ければどんな年齢だって成長はできるって、人の可能性を信じている。

本当はもっともっと酷いことをしたいのかもしれない。と思ったら、加虐欲が戻った証明なんだろうか。相手が嫌だと言っても、泣いてしまっても、とんでもなく苦しそうでも手を緩めず、あたしの目を見てなさいと言えるのは、相手に絶対に嫌われたり、相手が絶対に離れていったりしないと信じることができるからだ。信じられる時にしか、起こり得ない。
やりたいことをやれるようになるまで、あたしはものすごく時間がかかる。

時間といえば「時間が解決してくれるよ」と他人には簡単に言ってしまいがち。時間が経てば経つほど苦しくなることもあるよ。何一つ解決しない夜とか。

誰かが気持ち良くなるだけの存在ではありたくないけれど、自分が気持ち良くなるだけの存在でもありたくない。全ての感情も感覚も快楽も半分こだなんて、そんなにうまくはいかないだろうけれど、できれば与えてあげたいとお互いに思いたいし、奪いたいとお互いに思いたい。

口先も指先も自分勝手。自分勝手だとわかっていてそれを煽るあたしも自分勝手。

透き通った眼差しを今日も受け止める。濁りない眼とは言うが、本当になんの澱みもない。何が人の目を濁らせてしまうのだろう。経験や現実が、希望の中に混ざると人の目は濁ってしまうのだろうか。純粋さとは湧き出るもので、不純物とは混ざるもの、などと考える。

少し前までは職業女王様の動画やツイートを見て憧れのようなものも混ざったり、自分もこうなりたかったとかこうなりたいとか気持ちもあったけど、今はそうでもなくて、これも職業のひとつなのだなあと思ったりする。今は職業の肩書きを何も持たないあたしがやってることって、何なんだろうな。哲学的な思考に溺れたいんじゃない。自分は性的な嗜好に溺れたかっただけなんだけれど。何が憧れだったのか。

孤独を愛したかった。人の寂しさを理解したかった。今は1人じゃないし、この先誰にも愛されないなど思わない。1人で生きていけるのに、そこに誰かがいれば素敵だなと思ってしまう。それがエゴなのか、そうでなければ人は生きられないのか、悩みはあるようでない。

当たり前にあるものと、ある時突然引き離されることがある。お別れをいう時間があっても、顔を見てお別れができても、またいつか会えると分かっていても、また会える努力さえすればいいとわかっていても、それでもあたしたちは引き離される。それもまた、用意された試練なんだろうかと思うほかない。

あたしは「認められたかった」のだろうな。大々的に。いろんな人に。多数に。そして1人に。そうすることで自分を揺るぎないものにしたかったのだろうな。大声で自慢したかったんだろうな。それによって何かが変わるわけでないのに。陳腐な欲だけが満たされただけなのでは。自分の預かり知らないところで、良くも悪くも自分の噂話がなされてたら嬉しいというのもまた、そういうことなのだったのかもしれない。

大人は解決方法を知っている。
諦めるか、お金に物を言わせるか、最後まで解決に向けて努力するか。子どもはそれを知らない。諦めることを知らない。だからずっと泣く。泣いても解決しないのに。悲しくて、可愛い。本当はもっと泣いていてほしい。目がとろけちゃうくらい。

気持ちが落ちているからとか、そこに向かわないからとか、無気力だからとか、そういうことを理由に何もかもやめてしまうとさらに無に陥りがちな時は、とりあえずやってみる。会ってみないことにはわかりませんよ、ときみが言ったように。

出ていかないでね。ここにいてね。ときみは言う。行くところも新しいおうちもないから、出ていかないしここにいるし、おそらくきみの方が先にここを出ていき、あたしから離れてゆくだろう。きみが、望むままに。幼い魂、あっという間に大人になるよ。楽しみだね。

基本的には対等な関係でありたいが、何でも受け入れられる奴隷が欲しいし、その奴隷は性的な意味での奴隷でいい。奴隷にしてくださいと言いながら、あれしてこれしてってそれは奴隷ではないのよ。あなたの意思なんて知らない。

本質を知る、は難しい。教えてもらわなければわからないし、教えてもらっても嘘かもしれないし、教えてもらっても正しく理解できないかもしれない。きっとこういうことだ、と自分の中での勝手な解釈が、その後をどんどん捻じ曲げてしまうこともある。古典文学を解釈する時に似ている、と思ったりする。

過去も大事だから、今を大事にしたい。いつか過去になる「いま」。

どれだけ揺るぎなく繋がっていると信じていても、途切れる時はあっけなく途切れるその儚さを知っているから、また今度と気軽に言えない。会うのはこれで最後かもしれない。雑踏に消えてゆく背中を見つめるのが、これが最後かもしれない。100%で叶えられる約束なんてない。だけど、“またいつか” は言える。

きみの横顔を見ているだけで幸せになれる午後。きみにはもっと大きな幸福を得てほしいと毎日思うけれど、あたしはその横顔でとっても満足。明日からも、笑って生きていってね。

一度は全てを受け入れて、手放しで心を開いた相手に何かを拒絶されると、ショックで悲しくって、相手への拒絶になってしまうことがある。愛したものを憎むのは怖い。怖いのに、もう受け入れられない。そのことが悔しくて、自分自身が許せない。本当に、人生においてわずかな出来事。あの時こうであればよかったとか後悔している暇もない。ここまでの道は用意されてた。だから尚更、太刀打ちができない。

命の重たさ、やらを感じたくて、あたしは引き寄せ、抱きしめる。膝の上に置いて、力強く。なるほど確かに、命はずっと重たく、そして重たくなり続ける。

夜中の3時に返事をしたり、朝の5時に必ず起きていたり、かと思えば深夜まで返事を返すものだから、いつ眠っているんですか、と心配される。起きた時に頭が冴えていたら返事をするし、当然ながら眠っている時は返信はしない。あたしの心配よりも、その時間帯にあるあたしからの返信を受け取って確認しているあなたの方が眠れているか心配です。

「日常」のサイクルに入ったが、もうまもなく、あと3ヶ月もしないうちに、人生で一度や二度あるかないか、の不自由さを強いられる。不自由なことが嫌いな自分はどうやって自由を手に入れるかを考える。だけど自由が常にそばにあった時に、その自由に飽き飽きとしていたことも確かで、きっと神様はこのあたしには自由を与えても意味がないと思っているのだろうなあと思ったりする。もうまもなく40年になる人生の中で、今やりたいことをやる、と思って生きてきたけど、まだやり足りないことは沢山あって、こういう人間は100歳まで生きるんだろうなと思ってうんざりする。まだ60年も生きるのか。先は長いな。ため息が出る。

あたしに対してだけ可愛い人であってほしかった、というのは、独占欲なのだろうか。特別な感情が芽生えていなくても、自分が一番でいたいなんて欺瞞だな。

他人に心を開くためには、を考えている。でも安易に開く必要もないよ。判断がつけばひらけばいい。この人になら何をされても許せる、と思えるかどうかが転機かもしれない。

自分は何者であるか、ということは皆んなが考えるところかもしれないが、枠組みにこだわらないカテゴライズをしないことが良しとされ始めた現代において、自分が誰かの何であるかということを確認していくのはナンセンスなのだろうか。足場が揺らがなくなるから、あたしは好きなんだけれども。などと言いながらも、自分はサドでドミでSMのパートナーがいますと声高に叫ぶことに全て違和感があって、その違和感は「あたしは本当にそう名乗れるほどの者なのか?」という恥ずかしさでもある。周りがそれを否定したら、まるで勘違いして1人で名乗っているみたいで恥ずかしい。こんなことにこだわるなんて器が小さいのかもしれない。

ずっとずっと眠たい。これはこの時期だけの体質かと思う。なので朝は否応なしに5時に起きるが、全ての支度をすましたら少しだけ仮眠する。5分や10分の仮眠で、普段の睡眠では見ないような夢を見る。ひいた小さな手は、誰の手だったかな、とか、そういう曖昧で優しい夢が多い。

今まで当たり前のように着ていた服が次々と着ることができなくなって、お風呂あがりに全裸で腕組みをして悩む。

抱きしめたいのに、素直に抱きしめられないとき、どうしてやったらいいのだろうか。それでもきみはきっと、あたしの知らないところで笑っている。それで充分だのに。どうして“やったら”と言っている時点であたしの一方だけが依存していて、この関係はきみのためにはならないのかもしれない。

日常の中で頭痛は仲良しで、そんなときに限ってきみはあたしの足下で猫みたいににゃあにゃあと泣いている。泣く時だけ、甘えて来る。母と子は時に離れることが困難なくらい心身共に「ニコイチ」だが、相手が長くそれを望まなかったので淡白に過ごした。なので、あたしときみは親友に近い。それも会話の少ない親友。

ものの見事に自論なので声高に言いたいわけでもないが、D/sと聞くとそこに精神性が強く表現される、と思っていた時期もあった。だけど、従うという行動そのものに強く興奮できる「行為ありき」のタイプと、お相手のことが好きだったり慕っていたり敬愛しているからこそお相手に傅きたい、そういう「相手ありき」のタイプと、それが混在するタイプ(どのくらい混在しているかは人による)がいるんだなとわかった。言い訳や御託なんて意味をなさないほどの圧倒的な支配感や存在感を出していけるほどの高尚な素質と素材を兼ね備えた女であれば、行為ありきのドミナントになれたのかもしれないが、結局のところ犬のように愛でたいだけの時も多いので、素材もさることながら自分はこの位置にいようと思う。ましてやカリスマ性のようなものも皆無だろうし。

「あたしでなければならない理由はないでしょ」という問いには「あなたほど都合のいい女はいない」と返事が欲しかった。「あなたからは愛を感じるし、愛でてもらっている、という気持ちを強く感じた」などというのは模範回答が過ぎると思う。
そこには愛などという質量を伴わない曖昧なものはなかったのだ。ましてや、あなたから愛を微塵も感じなかった。性欲ばかりを感じた。きっとあなたはあたしのことを「好きではないが、呼べば都合よく付き合ってくれて気持ち良く射精させてくれたり、気持ちいいところを新しく見つけてくれる人、くらいに思っている」とあたしは思っていた。それは今も思っている。美辞麗句並べても、行動が全てだ。あなたが他人に心を開けない、と嘆く以上に、きっとあたしは他人に心を許さない。鵜呑みにして馬鹿を見たくない。
自分がこの世で一番、可愛いので。

責める相手が居ないっていうのが一番辛いかもしれない。災害で最愛の人を失うとか、支えていたつもりだったけれど自死されてしまうとか、相手に悪気がないとか、互いの勘違いの末とか、時間がそうしてしまったとか。それらのほとんどは事故のようなものなので。

不確かな速さと行き着く先の不安定さに、溺れながら底に沈んでゆく時が一番つらくて悲しい。底に辿り着いたら、もう考えることもしなくていいのかと虚無になる。あれは夢だったんだ、くらいに現実を捉えてしまって乖離する。

敢えてそうしようと思ったわけじゃないのに、今年の夏は多くのことを考えて思考に溺れて、多くのことをした。夏の後半は雨が多い。雨が降り、また暑くなり、雨が降る。地面が冷やされていってる気がする。そうやって、少しずつ慣れさせられて秋が来る。時間はやっぱり、水溶性なのかもしれない。

抱きしめてくれたあなたへ。
親愛の意を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?