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8.16

8月15日。7年前。どこにいたかと思い返せば長崎にいた。爆竹や花火を派手に鳴らし、先祖を供養する。その光景はあたしの知っている送り火ではなかったが、とてもノスタルジックで忘れられない夏だった。
終戦記念日、盂蘭盆、灯籠流し。それから今日は京都の五山送り火。離れて何年経っても容易に思い出せる故郷の夏の終わり。
まだまだ暑くて頭も痛いのに、季節の行事は夏を終わらせてゆく。

どれだけ時間をかけて作り上げたものも、壊れてしまう時は一瞬で壊れる、と改めて思った。壊れる。或いは、忘れてしまう。

この何週間か、3時頃に目が覚めてしばらく眠れないを繰り返す。睡眠が不安定なのは体が疲れてないのに頭が疲れている証拠。そんな気がする。

無理やりにも前を向こうとしていないか、と自問自答する。無理したくない。だけど、相手に「あたしの無理」に付き合わせてないか、の方がずっと気になる。

夜遅くまでお酒を一緒に飲んでいた女友達と「恋愛を含む相手への感情という意味でのピンクのフィルターが外れたら相手のことをなんとも思わなくなるよね」「そしてもう一度おろすのは至難の業だよね」という話をした。「しかもフィルターがはずれる時って、手動じゃなくて自動」と日本酒を飲み干した彼女は、とても綺麗な横顔をしていた。そんな彼女は今日も失恋のことなどなかったかのように、大阪市内に建つ予定の、高層建築の設計図面を描いているのだと思う。本当にかっこいい。

インターネットでの出会いは、時に使い捨ての食器のように感じる。簡単に捨てられるし情もなく捨ててしまえる。気がついたらなくなっていたりする。インターネットでの出会い、と言ってしまうから胡散臭く感じるが、インターネットを介さない出会いもきっと、そうだったのだろう。連絡先を知らないままとか、話さなくなるとか、顔を合わさなくなるとか、物理的な距離が開けば開くほど、いつかふわりとその繋がりは消えてしまう。

卑怯な人、というのはどこにでもいて、いい顔をしている人もいれば、あからさまに悪い顔をしている人もいる。自分は絶対にそのようにはなりたくないと思うからこそ、静かな顔をして真っ直ぐに生きていたい。ありのままを話したいし、狡猾な考えを持ちたくない。この発想はきっと、自分は高潔でいたいという、一種の願望なのかもしれない。高潔とはどうだろうか、反吐が出る。

前のパートナーとは2年だか3年だかの付き合いだったのに、彼のことをあまり思い出したくないと思ってしまうのは、きっと自分が真っ当でない形で彼のことを「捨ててしまった」という認識があるからかもしれない。彼はあたしが500kmの距離を引っ越すと知った時に、落ち込んだり悩んだりする間もなく、ついていきますと言い、本当に実行してしまった。何度もあの時に戻りたいと思う。大人として、止めるべきだった。あなたが決めることだからとか、あなたが責任をとることだから、だなんて、そんなこと、言ってしまう方がよほど無責任だったのに。でももうそれも、終わってしまったこと。

何も得られず、何の成長もなかったと思うような出会い。それだけは避けたいので。たとえ泥沼の別れを経験しても、少なからず一瞬は意味があったということを疑いたくない。

朝顔が枯れ始めた。もう寿命なのだろうか。自分が何かを育てると、自分の想像より上手くいかないことが多くて落ち込んでしまう。自然と対等にいようと思うこと自体、他者を育てようと思うこと自体、傲慢なのかもしれない。

素直さとは、と考えている。素直すぎると、本人はたまに困ることもあるかもしれない。だけど目の前の人を見て、その人の前でその人について評価を述べることは、本来ならば簡単にはできないことだと思う。それをやってしまう人は本当にすごい。今の自分の状況を、気持ちを、はっきり言える人も本当にすごい。脚色ゼロの感情を、気取っていないと言うのかもしれない。あたしも素直になりたかった。

誰かに決められたわけじゃないが、20歳よりも若い男性とは、インターネットを通じては出会わないようにしている。性的な関係になった時に法律で裁かれる可能性があるからだ。同意があったとて、トラブルを回避できる可能性は低い。法的に未成年の定義は変わったが、おそらくは天地がひっくり返しでもしない限り、20歳より若い男性に会うことはこの先もないだろう。
今まで出会って、SMプレイを含む性的な関係になった男の子の中で一番の年下は、18歳年下。20歳になったばかりだと言っていた彼だったが、20歳とは思えない落ち着きのその理由を知りたくて、たくさん話をした。希望を叶えてやれそうにないからを理由に連絡をしなくなったが、あんなふうに姿勢を質して前を向く20歳が、この世にはたくさんいるんだろうなと思うと、ただ感服する。

身分証は個人情報の塊だから、気ままに見せてとは言えないし、見せるわけにもいかない。なのに、それを理解した上で免許証の写真を送ってきたマゾがいた。あたしへの忠誠を形で見せたくて。こういうことをされたら困ると伝えたら「もし、この写真をあなたがばら撒いたとしても、それは本懐です。あなたのすることの全てを受け入れられるし、そもそもあなたは僕の個人情報をばら撒くような真似はしない。それをわかっていて、こういうことをしています」と言われたことがある。マゾは本当に怖い。あたしの思考を凌駕する。だけどそれは本当にしてはいけないからねと、写真は削除した。

愛しさの根源を語りたい。自分の中に抱えきれず、思わず外に滲み出てしまいそうな、この膨らみ続ける気持ちを。だけど、言葉にした途端にチープになりそうで、今日もそっと、体から少しずつ溢れてしまい流れ出してゆく愛しさを見つめている。

双極性障害という病気を患っていたこと。いまは寛解したこと。躁期は、眠らなくても疲れず食べなくてもお腹が空かず何時間でも仕事し、毎晩違う男と時間を共にし、そのまま眠らずにホテルから仕事に行き、1日45分ほどの仮眠を会社でして、また働く、ということを繰り返していたころに始まった。やがて、あたしの躁期は「攻撃」となった。壊したいという衝動、行き場のない怒り、八つ当たりのようなリビドー。おそらくここから、サディステックな己が芽を出したのではないかと、少し思ったりして。これはこの数日で気づいたことです。

全てが無になったと嘆くのでなく、無だからこそここからまた生んでいけばいいのに、とも、冷静に思う。もう一度。もう一度だよ。

マゾな行為を受けることが「甘える」ことになる、とはどういうことだろう。可愛いから壊してしまいたくなって、加虐行為を行うことで興奮するあたしがいるが、マゾの気持ちはちっともわからない。痛みや苦しさで罰せられ、それがどうしようもなく気持ちいいとは、どういうことなんだろう。
我々は互いに醜く、そして足りない部分を補完し合って、認め、自認を深め合っている。どうしようもなく、互いに甘えたくて、理解したくて、許され合いたくて、その可能性を問いかけたくて、仕方ないのかもしれない。

待たせるだけ待たせて、期待させるのが嫌だ。必ずしもいい答えを、出せるとは限らないから。

言いたいことを言う人、のことは羨ましいとすら思える。誰かを傷つけてしまうかもとか、当たり障りがないようにとか、相手の立場に立って考えるとか、本当はそんなことをしなくていいし、気持ちよく生きていくためには必要なのかもしれない。結果、誰かが傷ついたり嫌な思いをしたとしても、それもその人の役割なのかもしれない。
言いたい放題して他者を傷つける人になりたくないけど、本当はなりたい。

あたしの中の、あなたへの愛情を疑う。

30歳になっても他人の気持ちを慮ることができない人だっている。6歳でも他人の気持ちを察することはできる。それは性格とか、そういうことなのだろうか。あたしも最近まで、他人の気持ちになって考えようだなんて、思ってなかったかもしれない。

相手を許すというのは優しさではないのか。自分への甘さなのか、あたしの場合。

そりゃ、これだけ傷つけたし相手のことを考えてこなかったんだから、こんなふうにもなるよね、と思う気持ちでいっぱい。自業自得で業が深い。1人で泣くなんて傲慢にも程がある。

相手の立場に立って心情を考えるというのは、簡単なようで難しいことだけど、常にそれをしようとしている。あたしはあなたじゃないし、あなたの気持ちの全てはわからないけれど、あたしが嫌だと思ったことをあなたにするのは嫌なので。反対に、自分だったらどうするか、も考える。それは相手には押し付けたくないけれど。

「○○(俳優など)に似ている」と言うのも言われるのも苦手。外見だけで判断しているみたいだし、外見の印象には内面も混ざるし、それをすでに存在する誰かと比べている気がして。
それからあたしは、相貌失認だから、人の顔がわかっていないから。

毎日こうして、本音を更新する作業をしてきたけれど、毎日の更新は明日で終わろうと思います。
自分とはまだ、向き合いきれてはいない。だからどこかに、本音は綴っていくことでしょう。誰かの目につくところで自分の想いを描くことは自己表現というよりは自分勝手という感じもします。自惚れ方も、悲しみ方もわかりません。そしてこれが、あたしの誠意なのかもしれません。

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