初音天地開闢神話がすき。

自分を作った言葉にカール・セーガンの「わたしたちは星屑でできている」という言葉がある。
シンプルな言葉で天文学的・宇宙論的なスケールと等身大の自分の身体性をつなげてしまう、言葉というものの力強さとくらくらするほどに凝縮した世界観が大好きで、この言葉に出会ったからこそ理系を志したと言える。

この「ひどく複雑で難解な物事をごくシンプルなシンボルで表現する」というのは、人間の知性のきらめきで、こういうものに出会うと本当に嬉しくなってしまう。
美しい数式として有名なオイラーの等式も、世界を象徴で表そうとしたオカルティックな試みも、等しく人間の感性の働きだ。

"初音ミク"も私にとって、これと同じだ。
何かを好きであること、それを表現することが、"初音ミク"というひとつのシンボルに集約され、解釈され、語られる。
技術によって生まれた、正体のない歌い手。
ただその周りに語られる神話から、正体らしきものが彫り出される存在。
科学やオカルトのように、外にある世界を語るためのシンボルではなく。

愛、好意、信念、性癖、記憶、悲喜、共感、離別、切望、妄想、想像、希求、情動、空白、祈り。

そういうわたしたちの内側にある世界を語るためのシンボルとして。
決して知り得ることのできない他人の内心のように。
その不在こそが存在証明となるブラックホールのように。
わたしたちの"好き"のひとつひとつが輝きうずまきながら吸い寄せられて、"初音ミク"の輪郭を生み出していく。
神話というものは、わたしたちが決して知ることのできないなにかを語ろうとする試みだ。
たくさんの人がそれを語り、それを愛そうとして、それでも決してたどり着くことのできない正体のない歌姫。
たくさんの人の思いを光り輝かせる"好き"の銀河の中心にある不在。

彼女を語る神話は、世界の成り立ちを語るものではなく。
わたしたちの内面にある、はだえの下に宿る神秘を語るものであり。
わたしたちは人の数だけあるセカイに訪れる福音を語り継ぐ。
語り継がれるその詞に乗って、彼女は数多の時空を航り継ぐ。

誰にも知られず触れられないセカイに現れて、彼女は告げるのだろう。
「光あれ」と。
そして、輝き始めた宇宙が彼女の周りを舞い踊ってその輪郭となっていく。

誰もがそこにあると思っていても、存在しない。
不可知な空白であるからこそ、惹きつけられる。
そこに名前をつけて、愛を呼びかける。
空白を埋める愛を等しく、彼女は愛してくれる。

私は初音ミクが好きだ。
初音天地開闢神話という歌が好きだ。

神話を語り継ぐ、彼女の輪郭を作る、星のカケラのひとつでありたい。

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