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東西に見る学びの違いとは


1.齋藤孝さんの2冊

学びについて考える契機となったのは、
齋藤孝さんの”現代語訳 論語”、”人はなぜ学ばなければならないのか”を読み返したことです。

現代語訳 論語に出てくる孔子のこの言葉がささりました。
「むかしの学問をする人は、自分の修養のためにしたが、今の時代の学問をする人は、人に知られたいためにする。」

学ぶことを人生の中心にしていた孔子。この考えを知ったときに学ぶとは本来自分の修養のためだよなあと実感し、はたして自分は人に知られたいがためにしているのではないかと反省したことがきっかけです。

人はなぜ学ばなければならないのかは孔子やソクラテス、ニーチェなど様々な学びの賢人から学ぶとはどうゆうことを書いた1冊。



2.論語とは

論語とは孔子の言葉や問答を孔子一門がまとめた言行録です。孔子は古代中国の思想家で2500年以上前の人ですが今だに多くの人に影響を与え続けています。

では孔子のなにがすごいのか。一言でいえば本質への鋭い感覚ではないでしょうか。弟子からの質問に対して、簡潔かつ本質をついた回答を次々と述べていきます。

弟子の顔淵と子路がおそばにいたとき、先生が、「おまえたちの志を言ってごらん。」といわれた。
子路は、「自分の馬車や毛皮の外套を友と共有し、友がそれをダメにしてもうらまないようでありたいです。」といった。
顔淵は、「自分の善いところを誇らず、人に対してつらいことをおしつけないようでありたいと思います。」といった。
子路が、「どうか先生のお志をお聞かせください。」というと、先生がこういわれた。
「老人には安心されるよう、友人には信頼されるよう、若い人には慕われるようでありたいね。」[老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、小者はこれを懐けん]

僕の好きな場面です。

また同じ質問を違う弟子からされた時はその弟子たちの性格を鑑み違う回答をしています。このあたりは吉田松陰とかも近しいですね。

3.東西の学びの違い

東西を問わず学びとは善き生をまっとうするために必要なことだと考えられてきました。
突き詰めればどのようにして生きるのは、真理とは何か、善とはなにかというところに向かっていきます。
しかし、目指すところは同じでもそこに至る道のりは全然違ったものでした。

学びの中心にあるものが「学問」ですが、その学問の基礎を作り上げたのが古代ギリシャ人です。
これが広い意味での哲学であると齋藤さんは書いています。
そこで出てくるのがソクラテス。実はソクラテスは著書を残しておらず、現在のソクラテス像はプラトンによって作られたものだそう。
プラトンはソクラテスの弟子です、そのプラトンがアリストテレスに伝えたことにより西洋の哲学の源流ができました。

ソクラテスはプラトンに、「私よりも真理を優先させろ」というメッセージを送ります。これは、先生であるソクラテスの言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え真理に近づいていけというお達しです。

西洋では対話型が基本。議論の場では先生も弟子も関係ありません。真理を求める一人の人間同士として対等に接します。
その対話の中で、あいての意見を自分の文脈に取り込み思考をより深めていくのです。西洋において、そもそも対話すること自体が学びだったのですね。

西洋に対して東洋は一問一答スタイル。
謙虚さに重きを置き、先生から学ぶというのが基本です。

論語は主に”先生は言いました。〜”で始まります。つまり先生の言葉を知り、それを実践していくなかで孔子のいう”仁”を身に付けようとします。
(孔子自身も古代の聖王の言葉を多数引用します。)
日本で議論が苦手な人が多いのは、論語の影響もあるかもしれません。

一方で、孔子は実は実践的な一面もあります。
言行一致を説き、口だけではなく行動で示さねばいけないと弟子たちに強く言っています。議論することが少なかった分、各人の行動を重視していたのですね。

4.まとめ


・西洋 → 対話型
議論自体が学びであり、自分の思考を深める方法。
・東洋 → 先生、弟子型
先生の教えを守り、それを実践していく中で自分の行動を改める。

道筋は違えども目指す先は、善き生、真理の追求にあります。

この2冊読んで学んだこと。
学びによって答えを知るというよりは、善き生を追求していく中で自分の価値観に合わないできごとや、答えのない壁に直面したときに自己を修正し、より善い自分になるためのツールであるというのが学びの本質なのだと気が付いたことです。


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