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利賀で歴史思索にふける。

利賀村坂上の獅子舞が昨日の裏祭りをもって全て終了。今朝は特に予定もないので布団の中でまどろみ、遅い朝食を摂って鯉のぼりを片付けし、お隣のアラウエで子どもたちがベイブレードに興じるのを見て午前を過ごした。

昨日の片付けの際、坂上公民館で衣装を干しているとハッとさせられた。目の前にある地形に目が奪われたのである。ここで積年の疑問が一気に噴出した。

早速、富山県GISサイトで確認すると、台地状地形は坂上権現平遺跡と表示された。確か、OKDさんが利賀村教委にいた時代に、登録をお願いしたのだった。時代は中世、住所は南砺市利賀村坂上字原、遺跡番号は404026。埋蔵文化財包蔵地として富山県の台帳に登録されている。

実際に現地を歩くと、土塁状の高まりがあることが判明。その高まりをトレースしたのが上の写真。下の写真は西側の土塁状高まり。こうして見ると、地形の高低差を利用していて、西側からは高く見え、ある程度の防御性を備えることがわかる。土塁の上面には拳大の坂上石が敷き詰められている。

気づいたのは、公民館前を通る今の道は後世の開削で、本来の道はコダン宅裏を通ってフジサワの横に出る道。その道の中程に、権現平への登り道があり、石垣が積まれていた。積み方からすると18世紀を遡らない雰囲気。石材は坂上石。

今日は拾えなかったが、以前にうちの祖母が珠洲を表採したことがある。利賀には中世には珠洲が普及していて、少なくとも13世紀前半から15世紀前半の珠洲が確認されている。坂上東山遺跡でも14〜15世紀の珠洲が出ている。坂上権現平遺跡もその頃に存続していた可能性がある。

一つの推測として、坂上権現平遺跡には在地豪族の居館跡があったのではないか。眼下には西勝寺、山手には坂上八幡宮、遺跡はその中間に位置する。その3箇所は一直線上にある。遺跡は断崖上に立地し、防御構造をもつ居館と考えられる。八幡宮の八幡神は誉田別命で一般的に武運の神であるので、武系豪族の可能性もある。

砺波平野でもそうだが、14〜15世紀には畿内や北陸の西域から武系の来住が盛んになる。政情の不安定が背景にあるのだろう。坂上権現平遺跡は、来住した武系豪族の居館跡であったのではないかというのが、表面観察をして得た直感的推測である。五箇山では15世紀後半から浄土真宗の信仰活動が活性化するが、それ以前に成立した居館なのかもしれない。

以前、利賀村史に坂上館遺跡について書いたことがある(『利賀村史1 自然・原始・古代・中世』2004年,P141)。坂上に「政所(まんどころ)」と称する小集落があり、周辺には「門口」「館」という地名が残り、中世館跡の存在を推定した。西勝寺住職で考古学者だった米澤安立は「坂上村の政所は屏壘の残り箇所あり。俗に門口と云ふ。鎌倉将軍の世に別当を置き、政令を司らせし遺蹟ならん」と手記に残している。

政所と坂上館遺跡は、坂上権現平遺跡と悪瀬谷を挟んで対岸にある。双方の遺跡は、何らかの関係の上に成立したのかもしれない。と思索にふけりつつ、ゴールデンウィークの最終日をまったりと過ごしている。


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