国語科ワークショッフ_配布用チラシ会場変更版

緊急ワークショップ「これからの「国語科」の話をしよう!」を終えて(2)

(2)高校カリキュラムの中での「国語科」の位置
 以前にも書いたことと重なりますが、改めて。論点を明確にしたいので、ひとまず問題を「現代文」に絞ります。

 佐藤泉さんに『国語教科書の戦後史』(勁草書房)という刺激的な著書がありますが、高等学校用「国語」教科書(とくに「現代文」分野)は、それ自体なかなか興味深いメディアです。佐藤さんのご本では、主に教科書の中での「文学」の位置・役割の変化が問題化されていました。しばしば誤解されるのですが、現在の「国語」の教科書で「文学」が占める位置は、決して大きくはありません(逆に言えば、それだけ「文学」教材が、生徒さん・元生徒さんの印象に強く残る、ということなのだと思います)。
 
 では、「文学」の代わりに、何が入りこんできたのか。言語論や文化記号論など、「ことば」を直接題材とした文章だけではありません。近代化とポストモダン、比較文化論、経済学・政治学・社会学、国際関係論、環境問題、メディア論、哲学と倫理、ジェンダー論、そして科学技術論。おそらく「現代文」の教科書は、人文社会科学の多様なジャンルを一通り、「国語科」教員が扱えるぐらいの自然科学系の文章を一定程度には、取り揃えておくことが求められている。
 その意味で言えば、現在の「現代文」の教科書は、教科書検定という無視できないフィルターによって濾過された、人文社会学の「知」のトレンドを、一周おくれぐらいで映し出す鏡のようなメディアでもあるわけです。

 だから、先生方は大変です。多種多様な教材を前に、ある程度は「知」のオールラウンド・プレイヤーとして振る舞うことが求められている。もちろんそこに、「古文」「漢文」が加わります。高校「国語科」が取り上げる文章の幅はあまりに広い。

 事態を生んだ要因の一つは、まちがいなく、1990年代以降の大学入試形態の多様化・複雑化でしょう。実際に教科書を手に取って、「それは国語科の問題なのか?」「国語科はそこまでしなければならないのか?」と思うこともあります。

 しかし、一方でわたしが忘れてならないと思うのは、現在の日本の高校教育カリキュラムの中で、人文社会自然それぞれの「知」について書かれた文章と出会い、そのテーマについて曲がりなりにも考えていく時間が、「国語科」以外のどこにあるのか、ということです。
 紅野さんの『国語教育の危機』でも、現在の「現代文」教科書が、署名を持った文章=さまざまな立場の著者が書いた文章のアンソロジーであることが強調されていました。確かに、似たようなテーマは、「現代社会」「倫理・政経」で取り上げるかもしれない。でも、そこで最初の手がかりになるのは、執筆者たちの声によって統御された検定教科書になるはずです。一方、アンソロジーとしての「現代文」教科書は、同じテーマをめぐってさえ、複数の著者が複数の見解を掲げているざわざわした議論のアリーナとしてある。ですが、それこそが社会であり、わたしたちの生きる世界だと思います。

 あえて大仰な言い方をします。大学設置基準大綱化以後、じつは高校「国語科」こそが、いびつな形でではありますが、結果的に「教養基礎」的な読書経験を提供しようとしてきたのではないか。多様な進路に開かれた生徒さんたちを前に、諸学知の「窓」としての役割を果たしてきたのではないか。以前に書いたnoteで、「高等学校「国語科」が下支えをしてきた、この社会の「知の土台」の基礎の部分が掘り崩されてしまうかもしれない」と書いたのは、こうした考えからのことでした。
 思い出してみてください。授業中の退屈つぶしに、授業とはまったく違う教科書のページを読み耽った経験は、おそらく多くの人にあるはずです(少なくともわたしはそうでした)。

 こんかいの「新しい国語科」の方向性は、「読むこと」に関する如上の構造を大きく変えようとするものです。本当にそれでよいのか。ならば、いま高校「国語科」が、好むと好まざるとにかかわらず担わされてきた役割を、他の教科・科目で代替ができるのか。「カリキュラム・マネジメント」がそうした発想で活用されるのなら、ぜひ進めてもらいたいとも思います。
 「国語科」を変えるということは、たんに一教科だけの問題ではありません。高校教育全体のデザインにも、少なからず影響を与えてしまう。「これからの「国語科」」を考えるうえでは、こうした視点も意識していきたい、とわたしは思っています。

 これまでもわたしは、くり返し「国語科」がいまのままでよいとは思わない、と述べてきました。現在は、兎にも角にも拙速な「改革」を何とか押し返したいという思いから、したたかに抵抗する足場を固めることを優先させています。でも、それはあくまで短期的な「戦略」の問題です。

 わたしの専攻は近現代の日本語による文学・文化であり、「国語科教育」をアカデミックに勉強したわけではありません。これからも、その基本スタンスは変わらないと思います。でも、ことばの恐ろしさ、不十分さ、不可思議さ、にもかかわらずそのことばでやりとりせざるを得ない人間の業と切なさ、それでもことばを使うことで初めて見えてくる世界と存在の豊かさと喜びとを、学校という場所、教室という空間でともに考えていきたい、という気持ちに変わりはありません。

 まさに紅野さんのご著書が導火線となって、「国語科」や大学入学共通テストをテーマとした企画が目白押しのようです。でも、こんかいのWSのような大きな集まりが、いつもできるわけではないとも思います(たいへんですしね)。
 同僚の倉住先生@KaoruKurazumiが書いてくださっていましたが、13日のワークショップの熱気は、いままであまり接点のなかった「国語科」の関係者が一同に会し、それぞれの現場感覚をぶつけあったことで生み出されたものだったとわたしも思います。だとすれば、一方で必要なのは、こうした忌憚のない意見交換の場を、これからも持続的に作っていくことだと思います。いますぐに、というわけにはいかないのですが、小さくても機動性のあるそうした場所を作れないか、自分なりに少し模索してみたい、と思っています。(了)