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日本大学国文学会研究集会「「国語」の現在、「国語」のゆくえ」印象記

※ Twitterで「まとめ」を発信しましたが、長くて読みづらいものになってしまいました(申し訳ありません。。)こちらで一括して読めるようにしておきます。Twitterの方では、字数制限のために一部表現を改めていますが、内容的には同一のものです。

 昨日(2月23日)は日大国文学会研究集会「「国語」の現在、「国語」のゆくえ」に参加。高校大学入試等の重なるタイミングでしたが、150人ほどの参加者で盛況でした。見知った顔と再会すると、何やら「同志」的感覚も生まれますね。内容的にも、1月大妻でのWSから論点がググッと絞り込まれてきた、と感じます。以下、私なりの「まとめ」です。当日の模様はネット配信の準備もされているとのことでしたので、その「予告編」ぐらいの感覚でお読みください。もちろん、「まとめ」の文責は五味渕にあります。ご寛恕のほどを。

 こんかいの報告者は日大文理学部のお二人。梶川信行さんは、ご自身の「国語科教育法」授業での現場感覚を出発点に、いまや大学の国文学科でも「古典嫌い」は増えていること、その大きな原因が文法中心主義的な古典教育にあるのではないか、という問題意識を示されました。国語科や古典教育の議論を、一部の受験エリートに最適化していくのではなく、「高校段階で幅広く学ぶ「古典教育」はどうあるべきか」として考え直すべき、という視点に貫かれたお話だったように思います。目からウロコだったのは、現在の高校古典における文法教育の基礎は戦時下の国定教科書ではないか、というご指摘。これは専門家の方々の知見もうかがいたいところですが、戦時・戦後・現在と続く学校の社会的位置の変化と教育内容の「変わらなさ」という論点は大事ですね。そこにはもちろん「やっていることは同じだけど、その意味や位置づけが変わっている」ことも含みます。

 紅野謙介さんのご報告は、こんかいの高校国語科新指導要領の「旗振り役」として活発に発言されている大滝一登氏の著作を取り上げ、氏の提唱する「新しい国語科」の内容を脱構築的に論じながら、「主体性」「対話性」とはそもそもどういうことか、に深く鋭く迫るものでした。プレテストに示された(悪い意味で)教科書的な・おざなりで型にはまった対話モドキに対し、『羅生門』での下人と老婆の対話がいかに複層的で、次なる思考に開かれているか。しばしば否定的に言及される教材「水の東西」(山崎正和)でさえ、「主体的」な学びにつながる工夫はできるし、現になされてもいること。そのほか、「学習指導要領」とはどんな性質の文書なのか、現行の教科書でも十分に「主体的」「対話的」に学べるのに(学んでいるのに)なぜ共通テストを変えなければならないのか。時間のスパンを広くとった問題提起は、高校「国語科」の実践が、いかなる批評性を担ってきたのかを改めて問いかけたものだったと感じます。

 コメンテーターもお二人。まずは文教大の山下直さん。国語科教育学の立場から、新科目「現代の国語」「言語文化」について、時間数ベースで言えば「読むこと」の比重が減っているとは言えないこと、むしろ高校国語科の現在を考えれば、「書くこと」がほとんど学ばれていないことの方が問題ではないか、という認識から、教科として高める資質・能力を明確にする必要を指摘されました。

 続く若宮知佐さんは、お勤め先の東京学芸大附属中等教育学校で、まさにその「書くこと」について、クラスの少人数化・週1回の授業とフィードバック、という授業を展開されている実践を紹介したうえで、プレテストの記述式問題は条件設定が多すぎて「書く自由」がない、これでは「書くこと」よりも「書かされること」にならないか、ならば記述式にする意味がほんとうにあるのか、という鋭い疑問を呈されました。「書くこと」は、生徒さんたちにとっても苦しい作業だけれども、創造的で、かつ自分自身を見つめ直す「メタ認知」を促すものでもある。けれども、現行のプレテストが「共通テスト」になった際、その記述式問題に対する対策が進むことで、ほんとうに「書くこと」を教えていることになるのか、「書くこと」の教育の本来的な可能性を奪うことにならないか、という問いかけはとても大切で、重要な問いかけだったように感じます。

 質疑応答の時間に私も気になることを質問しましたが、全体を通じて、山下さんが新指導要領・新共通テストを擁護する立場から、じつに誠実に真摯に応答してくださったことが印象的でした。確かに、高校「国語科」をより悪くしよう、ダメにしようと思って発言している人はいません。だから1月の大妻も、こんかいの日大も、これだけの方々が集まった。問題は、そのタイミングであり、進め方であり、内容なのだと思います。確かに内容面は、議論を通じて対話を深め、お互いの誤認も含めて「新しい国語科」の道筋を考えていくことができるし、これからもそうすべきです。

 でも、ならばもっと前から、ボトムアップのかたちでするべきだった。この間さんざん私も書いているように、批判側の問題提起のタイミングも確かに遅かった。でも、進める側も、共通テストを変えれば・大学入試を変えれば・教科書を変えれば、現場はそれについてくる、という発想で動いてはいなかったでしょうか。結果的にそれは、現場の教員の主体性を削ぎ、「指導要領」を実施する代理人(エージェント)へと切り縮めることにつながる。それは、誰かによって管理しやすい教室を作ることに直結します。

 こんかいの「新しい国語科」の問題は入り組んでいます。世界的な人文学への攻撃という長期的な潮流があり、財界と財務省を中心とする人文社会科学系学部学科に対する干渉・介入という喫緊の動向があり、教育に手を突っ込みたくてたまらない政権や保守の思惑があり、そのおこぼれで利権に与れるかも、という期待もある。こうした状況の中で「何かを変えること」は、主観的な意図や思惑をこえて、思いもよらない帰結を招く可能性がある。「国語科」に限らず、教育は社会に埋め込まれた営為です。だからこそ、「この変革が何をもたらしてしまうのか」にもっと敏感になるべきです。
 その意味で、1月大妻、2月日大のような議論が積み重なっていくことは、とてもとても大切なことだと思います。自らの「正しさ」に凝り固まって独善的になるのではなく、文脈の違いを埋めあい、互いの誤認も解きほぐしながら議論を進めていくことで、新しいつながりも知恵も可能性も生まれてくるのだと思います。そのきっかけを作ってくださった紅野さんのお仕事に、改めてこころよりの感謝と敬意を。