TIME プロ声優と何が違うか考えた話
棒読みってなんだろな、しかし。
本編よりもそんなことを考えさせられてしまう。
あ、最近はU-Nextです私。
それで考えていたらもはや映画はどうでも良くなってしまった。
noteでも書くか…。
吹き替えといえば思い出すのがプロメテウスですが、あれは本当にびっくりした。なんでこれでリリースしていいと思ったのか関係者全員興味なしか。しかしあの映画のさらに凄いところは映画自体も酷いのでもはやどうでもいいわと観るものに諦めさせてしまうところ。文句をいいたい時間すら無駄ではないかと強引に忘れさせる力というか…シャットダウン力が半端じゃない。
まあ私は嫌というか無理なら字幕で見るのでいいですが、でもこれなぜ無理と感じてしまうのか。そこは少し考えてしまいますよね。なぜなんだ。別に台詞が文法的におかしいわけではない。大抵は現実的な会話であれば変じゃないと思う。逆に日常で声優みたいな喋り方するやついたらイラつくよ多分。しかし、だからそれで良いといわれるとそれは絶対に違うだろう。違うということだけはわかる。感覚で。吹替上の映画が崩壊する瞬間を確かに感じ取れるから。
そもそも映画というか物語中のセリフとはなんなのか。
もしかしたら私たちは声優の方の声の演技を歌手の歌のように味わっているのかもしれないね。
非日常なフィクションの中で声の響きに魅力を求めてるのかな。
つまり吹き替えって歌みたいな。歌と会話の中間のようなものか。
プロ声優の声ってのは誰であれ声に力があるね。
義太夫みたいな…いや義太夫よく知らんけど。そういうジャンルあるでしょ。
なんていうか、ダイナミックなしゃべり!
🤔
例えば…歌のピッチがあっているだけではボーカリストとはいえないですね。
やはり歌手というものは声の魅力、声力(コエジカラ)だったりアクセントの癖や、その人特有の倍音みたいな…個を認識させる互換性のない成分だったり。そう、歌手ってのはその人がその人でしかあり得ない、つまり互換性のなさだと思う。それってつまり、ひとことでいうと…表現かな。個に紐づいた表現。だからロックは廃れない。ジャズなどのインストが廃れる定めなのはつまるところ技術は模倣可能で、個に結びついた表現は互換性がないからでしょ。話がそれたな。絵には絵柄のようなものがあるでしょ。それは固有の表現だよね。ただ現実世界をそっくり二次元の紙に模倣することが目的なら別に写真でいいけどそうじゃないのはそこにそれぞれの表現が介在するからですね。つまりある人という媒介…いやこの話もいいや。
つまりある表現物の中で表現の欠如した声の演技を棒読みというのかもね。
結果そう感じてしまうもの。
でも私だったらこのセリフを実際こういうふうにしゃべりますよ。
それは、会話。表現、、、会話には表現はないのか。んなこたあない(タモリ)。しかし、それはやっぱり第三者を楽しませるための意図を持った作品の一部としての表現とは全然違うよね。
そういうことかな。
考えていたら割と腑に落ちたので良かったです。
しかし、私たちは(私は)なぜ1円にもならない無駄な文章を描いてしまうのか。
人生の無駄では。
承認欲求でしょうか?
私はそれを忘れるためだと思う。
書くことで思考が整理されるとどうでもいいことにとらわれずにすむから。ちゃんと処理済みのタグ付けがされて脳の中のどうでもいいフォルダに突っ込んでそのことに煩わされることがない。そういう欲求があるときに書くことがありますね。そうでないことも無論あるけども。
つまりメモリーを解放するためじゃないかな。
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