ホームレス歌人は実在したか
2008年頃にホームレス歌人なる人物が話題になったのをご存知でしょうか。
つい最近私は「ホームレス歌人のいた冬」という本でその人を知ったのですが、いわゆる新聞の短歌投稿コーナーで脅威の採用率と人気を得るも9ヶ月で消息をたった謎の歌人、公田耕一(ホームレス)なる人物です。
パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる
ちょっと上手いですよね、うま過ぎるくらいに。パンのみとパンの耳ですよ。
他にも
(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
ダリの有名な絵の中の時計を引用して体感時間の長さを表していると。炊き出しなのにこの知的な味わい。知的なサイコパスといえばハンニバル・レクターですが知的なホームレス歌人とは、公田耕一。
しかし果たしてこのような知性と哀愁と創作意欲の合間見えるホームレスが本当に実在したのか。
あるいは住所と歌併記のフォーマットから誰かが思いつき生み出された架空のキャラクターなのか。
まあ真相は誰もわからずじまいなんですが、それで良いんじゃないでしょうか。
実在したにせよ創作であったにせよ、誰かの中にその歌を生み出すなんらかのエネルギーが確かにあった。
それは間違いない、疑いようのない事実ですよね。
カタチとなり放出されその歌を目にした人の中にホームレス歌人公田耕一という痕跡を残し去る、それもまたクールだな。
なにかしら自己の表現に意味を求めるならそれは自己完結ではなく他者への作用の中に見いだされる。それは人の持つ社会性のサガですよね。
そのほとんどか全てがフィクションであったとして結局は作者の中のある混沌から抽出されたものなので、表現においてどこまでが真実なのかはあまり問題ではないように思えますし、結局はドリップコーヒーのように挽かれた豆があり、そこに熱湯がかかることでフィルターからコーヒーが抽出される。
私はそのコーヒーを飲む。美味い。
コーヒー豆は食べない。
ですが抽出結果のコーヒーを味わうんですね。
しかしコーヒー豆が実在するからドリップされた結果コーヒーが存在するわけで、実在しない豆のコーヒーを飲むのはあり得ない、因果として、たとえその全貌が見えなくとも何かの豆は存在し挽かれたんだ。
だからホームレス歌人も実在したかどうかは問題じゃないですね。
まあいたら良いなとは思うけども。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?