「我が愛しの殺人鬼」上映会を終えて

本題に入る前にまず、               私の考え方のトレンドについて書きたいと思う。

『今 この場で起きていることの意味は 何なのか』

私は記憶が長く続かない(つまり忘れっぽい)のと、 瞬間的な感情の起伏が激しいので、         その瞬間に起きたことを冷静にその場で処理できず、 言葉が暴走したり場所問わず涙が出たりする。

アラサーという言葉が視野にちらつくようになり、  さすがに大人がいつまでもそうあってはならん…と思いつつなかなかコントロールできていなかったのである。

そのコントロール方法の一つに、冒頭の問いかけを自分に投げかけることで冷静さを取り戻そうとしてみたりしている。(まだまだ上手くはいかないんだけどね)

その問いかけにたどり着くまでには、そーたろーさんの誕生日らへんにあったゲリラファニコンライブがきっかけだったと思う。

ちょうどあのライブがあった頃は、元彼と別れて少し 経った頃で、別れた直後から1週間くらいは精神状態が おかしくて毎日仕事中以外は涙が出たりしていたのに、もう1週間経つと少し落ち着きを取り戻した自分もいて、あの感情のエネルギーがたった2週間で薄れてる事実に驚きと悲しさと自分への嫌悪感みたいなもので、   また別のドロドロしたものに囚われていた。

そんな時にそーたろーさんがゲリラ?だったと思う、 ファニコンライブで、しゅくファミからの誕生日を祝う声に癒された、助けられた感謝を伝えてくれていた。

『うまく纏まらないし、恥ずかしいけど、今この瞬間の気持ちをちゃんと声に出して、伝えておきたい』

(…………的なことを言っていたと思うけど、冒頭の通り私は記憶力が乏しいので、違うかもしらん)

『今はこうして応援してくれていても、この先どうなるか分からない』

『ファンに対して、どうせ応援してくれるのは今だけかもしれない、とか疑心暗鬼になってしまっていた』

そんな言葉が凄く、刺さった。

そうか、いつだって先のことに保証なんてない。

私だって明日はもう彼のことなんてどうでも良くなってるかもしれないし、そういえば最近はしゅくかしの動画もライブも昔ほど食い入るようには見てないなぁ、感情が移ろいで行くのは当然で、そりゃそーたろーさんも不安になるよね。私もこれを書いている今、別れた当時の暴走していた感情はもう戻ってこない。取り戻せない。

だからこそ、今思ったその時に、恥ずかしくても、上手くまとめられなくても、声に出した、残してくれた、伝えてくれたこのライブには、とてつもない意味があると思った。

確かにそれが存在したことを、今、残さなければ、  いつか、いや、近い未来には、無くなってしまうから。

たしか後日、そーたろーさんは別のファニコンライブで、あの誕生日ライブで話したことをあんまり覚えていないと言っていた気がした。

やはりそういうものなのだ。どんなにその瞬間に思っていても、良いことも嫌なことも、薄れていく。それは、誰しも当然にあるし、その時しか表現できないからこそ尊いということでもある。たぶん。

実際、これを書いたのはあれから1ヶ月以上経っていて、あの時の方がもっと色々思いついていたけど、、、忘れた。(本日は1月25日)

そんなこんなで、あのそーたろーさんのライブの日から思いついたことはできるだけ残したいと思ったのです。


これを書こうと思ったきっかけが、今日観に行った  「我が愛しの殺人鬼」上映会(やっとタイトル回収)

正直ここの所ところ、自分の身の回りにコロナの影響がダイレクトであり、ある種の最前線で働くことになって疲労と、戸惑いと、不安とで、ぐっちゃぐちゃだった。

最近は目につかなくなっていた酔っ払いの集団にも、 また怒りを覚えた。その酔っ払いの集団が世の中の具現化したものにも見えて、世間に対しても怒りを覚えた。

みんながコロナを甘く見ていているから、収まらない。あの人達のせいだ、世の中のせいだ、むかつく。

今思えば、あの人たちは世の中の具現でもなんでもないし、そもそも私のその怒りの根源は、自分が自分の持ち場から離れなきゃならなくなって、嫌だったからだ。 そして、前線に出て初めて、コロナで私以上に辛い思いをしている人に出会ったからだ。

コロナの対応業務の応援に派遣されなければ、酔っ払いの集団なんて目に付かなかったかもしれない。今現場で起きてることなんて知りえもしなかった。むしろ私だって気づいていない側だった。しかも現場だって、事務の現場であり、医療の現場なんてもっと戦場だろう。

だからこう考える。

今 私1人が、この臨時業務に駆り出された事には、  何か意味がある。意味を見出す必要がある。

意味を見出せるのは、今の、私だけ。

じゃあ、今の私ができることは何かと考えた時に、  今 残すこと、今 伝えることだと思った。

そして、上映会が決行された。

YouTubeで公開されているものを、制作者と共に、スクリーンで見ることにも、何か意味があると信じて。  いや寧ろこの中で行くからには、意味を持たせたいし、私だから生み出せる意味があるはずだ、とか。

映画の上映が終わり、制作者のトークショーが繰り広げられていく。

相変わらずそーたろーさんは登場直後くらーーーくて笑客席側をほとんど見ないし暗いし。暗いことをいじられてるし。でも演者達が楽しそうに話すのを照れくさそうに嬉しそうに見ていて、不器用だなぁなんて思って。

最後の締めの和田監督の言葉。

「みなさんが見てくれること、応援してくれることが、自分達の可能性を大きく広げてくれるんです、本当に」

その顔は真剣だった。

そうか、今日の意味は、これだ。

この大変な中、頑張っている人たち、悩みながら、決行したこと、そしてそこへ足を運んだ人がいる。

この行動が、誰かに影響を与えている。

それが目の当たりにできるって凄いことだ。

正直ファンだって、私たちの応援は届いているんだろうか、意味はあるんだろうか、実際分からなくて不安になったりする。そして、ファンの数が増えれば、全体のエネルギーはもちろん増えていく分、我々個人の顔は遠のいてしまうんだろう。初期ファンならではの、遠くへ行ってしまうような寂しい感覚が生まれていく。

それを、人と直接会うことが困難になったご時世の今、自分が送った応援が、この人達の可能性を広げることが出来たと、改めて知ることが出来た。

みんな頑張ってるんだよな、って思えた。

少なくとも、私が応援したい人は、頑張っている。

それだけで充分だ。

じゃあ今、私がここに来た意味があるとするなら、  それは、この気持ちを、本人に伝えることだ。

そーたろーさんの言葉で気付くことができたから。  

5分のサシトークは、トップバッターで、まるで面接のような席で、ステージ上で、落ち着かないかもなぁなんて思ったけど、びっくりするくらい自然体で話せた。笑

せっかく映画の上演会なんだから、監督としてのそーたろーさんの話が聞きたいなーと思って質問したら、  「え、こんな真面目な話で大丈夫?」って確認された笑

1番苦労したことは、の返答に対して、        「絵コンテ」って言われたのは、まぁ確かに専門的やなぁと思ったけど、私も映像作りをほんの少しやったのでとても共感できる話だった。イメージしてるものを、共有して形にするって、難しいんよな。分かる。

お互い民間を辞めた時期が近くて、同じ時期にハローワーク通ってたよねって話をしたら、そういえばマックでバイトしてたなって言ってくれて、その後も普通に話し込んだけど、よく覚えてくれてたよねって話よ。

赤の他人のことを、ファンとはいえね、覚えてくれてくれるってありがたいことだよね。YouTuberかどうかとかも抜きにして、ありがてぇなぁ。

そして、そーたろーさんの言葉がくれた、今日の意味のこともちゃんと言えた、と思う。私の見出した意味が、そーたろーさんや、制作陣にまた少しでも良い影響みたいなのが生み出せていたら、私があそこにいた意味があったのだろう。


いつかのそのそーたろーさんのファニコンライブで不安になっていたように、たしかに私は、全盛期よりファンの熱量は分かりやすく下がっている。

それは立場が変わったことも大きいと思うけど、   熱量が下がったのは、確かだ。

「今だけ応援してるファン」と言えるかもしれない。

それでも確かなのは、今は応援しているということ。 たぶんそれって、それで充分だ。

先のことなんて保証なんてないから、明日にはもう興味がないかもしれない。もう二度と動画を見ないかもしれない、会うことも、話すことも、ないのかもしれない。

それでも応援の気持ちを込めて、またね、と交わす。 忘れないように、祈りにも似た言葉かもしれない。

だからこそ、今日のこの想いが薄れる前に、私は今日も指を動かして残したりしてみたよ。

これが今日私が今日を生きた意味なのかもしれない。