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【Twelve Minutes】モンスターは、誰だ?

ミステリー、サスペンスを読むときの醍醐味とはなんだろう。べつにそれらに限ったことでもないけれど。

「ゲーム」もここまで来たか、という感慨も深い。ゲームでなければできないことを絶妙に折り込みつつ、「読書体験」に似た、自分の居場所、立ち位置を大きく揺さぶられるような。

実際に起きたことは何だったのか、を理路整然と語れる頭の持ち主でもないし、このゲームはそれを拒むような作りになっているとも感じる。これが正解というようなものは用意されていない。動画中でも言ったけど、ある過酷な運命に生まれついた人物が壊れていくところ、壊れている様子を、プレイヤーである私が見ている(見せられている?)ように感じた。

作中人物の知っていることとプレイヤー(読者?)の知っていることが途中まではシンクロしている。アーロンは私で、不可解なのはサラである。だが途中でそれは静かに入れ替わる。いつのまにか逆転していて、私のアバターであったはずのアーロンと私の距離はどんどん離れていく。私はアーロンを理解できないまま何度も本棚の部屋を訪れる。なんだこいつは?一体何を考えている?もう、私はアーロンを「モンスター」としか呼べなくなっている。彼に殺された?彼の父親のように?

ついにはアーロンの実在すらも信じられなくなる。延々と続くループの中で「何が本当に起きたことなの?」「あったことすら曖昧だ」ああ、異母弟の存在すらも曖昧だったサラが似たような台詞を言っていたな…

示される選択肢のどれにも共感できない。選べない。むしろ、一体どういうことだと尋問するような気持ちで白い文字を選んでいる。それはただの好奇心だ。ここからハッピーエンドなんて不可能だし興味もない。アーロンもサラも幸せを祈りたい人物ではない。私は真実が知りたいだけだ。

モンスターは、誰だ?

多くの物語は、特にゲームのそれは共感をエンジンに作られている。キャラクターに感情移入し、惚れて推して共感して、こいつのカッコいいところをこの子の幸せな笑顔をと願うことが、プレイヤーにコントローラーを握らせる大きな原動力になっているものは多い。だがアーロンもサラもそうではないというか、それらを強く拒否しているようにさえ見える。アーロンはボンクラでクソ弱いし初手から若干キモい、いや若干どころではない、妻へのメールに嘔吐してる君はセクシーとか書くんじゃねえよまじキモい。サラはサラで勝手で気分屋で妙に繊細で過敏で意固地で扱いにくい女だ。愛されるための記号、彼らをハッピーエンドに導くためにプレイヤーの努力を促す記号をほぼ持たない。この違和感(特にサラ)に私は最初からかなり振り回されていてそれに気づけず、サラがヘン、白石一郎の小説に出てくる女みたいと言い続けている。(白石一郎の小説に出てくる女とは、女の微妙な嫌な面をスキを逃さず瞬間的にズームするような、当然それはしばしば性的な匂いを帯びながら美しさや嫌悪によらせずに女を描く、というような、ストーリーテラーのカメラワークによる描写程度の意味と思ってください)
サラは夫に愛されていて、第一子の妊娠を夫に告げるのに浮かれてサプライズを企てるという、まあまあ可愛いことをする女なのに「そう見えない」のだ。声の芝居の確かさも合わさって、この違和感はほんとに違和感としか言いようがないのだが非常に強固で、その正体は彼らが「愛されないための造形」をされている、ことかもしれない。このキャラクター造形は、このゲームの根底に流れる「取り返しのつかないあやまち」とそれによる「絶望」を、ひどく冷静に克明に見せる。それらは本来美しくもなんともないものだと。

だってさあ!これで例えば、幼いアーロンがサラに淡い初恋を捧げるシーンがあったら?後に出会って強引な(って言ってたよね)アーロンにサラが絆されていくシーンがあったら?そういうシーンが一つでもあったら(この際アーロンの妄想でもなんでもいい)、途端にアーロンとサラは「許されない禁断の恋に囚われた哀れな恋人たち」に成り下がる。取り返しのつかないあやまちは、そのおぞましさと絶望を簡単に漂白されてよくある物語に着地する。よくあるやつだよ、そんなのは。アマプラにもネトフリにもSteamにも無数に転がってるやつだ。
慎重にその着地点を避けて、このゲームはよくある物語やカタルシスを拒否したその先を描こうとしている。このゲームが差し出してくるのは、共感や教訓や示唆や達成感ではなく、プレイヤー自身がこの、なにひとつ愉快ではないがそこここに横たわる、あやまちと絶望について考えてくれるはずだという信頼なのかもしれない。


実際こうして私は張り切ってなんか書いてるし、もう探せばなんぼでも考察も実況もあって、むしろここからが本番、いろんな人の考察読むのたーのしー!これをやるためにプレイしたと言っても過言ではない。あとこういうアドベンチャーゲームを実況しながらやるのは、頭を整理しながらできるというか、自分的に密度の濃いダレないプレイングができた感じでそれは新発見。

更に追記
やってて思い浮かんだやつ。映画的と評してる人も多いけど、私は読書体験に近かったかな。映画そんなに詳しくないので…
・アゴタ・クリストフ『悪童日記』(三部作のうち一作目)
・真梨幸子『殺人鬼フジコの衝動』
・マーガレット・アトウッド『またの名をグレイス』『侍女の物語』

いずれも共通するのは、作中人物と読者の情報が変化していくような構造。特に悪童日記の、三部作の一作目の、最初から最後まで作中人物にアドバンテージを握られて読者は何を見せられているのか何が起こっているのか、不安なまま読み終えることになるやつ、本棚の部屋をループし始めるともうほんとこれ。
大事な情報はすでにそこにあるのに、開示されているのに、読者はそれが何を意味するのか教えてもらえない。で、それはいつのまにか読者だけが知っている情報となって、作中人物の不可解さを際立たせていく。意味ありげに変化していく絵画や鉢植えに振り回された読者は、自ら進んで不可解の縁へ近づいていくことに気づかないのだ。気づいたときにはもう手遅れ、もうなんにも信じられないんだ!

「そういうことかあ!」と目の前が開けるような、発見とか理解の快楽はそりゃあ大好物ですけども、わからないことをわからないなりに愛好する、というのが私は割と得意というか好きでもあって(宇宙とか)、結局はどうだったのか、正解がわからないこのゲームは割と肌に合った。すっきりしたい、達成感を得たい、オチを知りたいという人には合わないかもなとは思います。

※色々考察を読み漁ったり、実況見て回ったりした感想
警察とか消防に連絡できるんだ… 思いつきもしなかった… そんなに社会を信じてないの私…

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