最後の魔女の物語

 ヴィオラ・ホワイトは生まれてからずっとひとりぼっちでした。孤児院の先生が言うには、まだ赤ん坊のころ、門の前に置き去りにされていたというのです。随分ひどい親もいるものね、と物心のついたヴィオラは思いました。孤児院での生活は窮屈で退屈で、あまり楽しいものではありませんでした。けれどもヴィオラは寂しくありませんでした。なぜなら、ヴィオラが悲しくて辛くて枕を濡らす夜には決まって、どこか遠くの方から、優しい優しい子守歌が聞こえてくるのです。子守歌はヴィオラにしか聞こえていないようでした。同じ部屋で眠る子供たちを叩き起こして聞いてみても、誰も聞こえないと言うのです。きっとこれは、私が選ばれた特別な女の子だからだわ、とヴィオラは思いました。子守歌はいつだって、ひとりぼっちのヴィオラの支えでした。
 子守歌はヴィオラが孤児院を出てからもずっと聞こえてきました。ひとりぼっちの部屋でひざを抱えてうずくまっていると、あの頃と変わらず優しい歌声が聞こえてくるのです。まだ幼いころのヴィオラは、子守歌の主を探してあちこちを探し回ったりもしました。けれども一度だって、その姿を見つけることはできませんでした。もう大人になったヴィオラは、夜中に部屋を裸足で抜け出すようなことはしません。優しい子守歌を歌っているその人が、姿を見られたくないのなら、それでいいと思うようになりました。
 それは、ヴィオラが25歳の誕生日を迎えた夜のこと。ヴィオラは夜中にふと目を覚ましました。窓から差し込む三日月の光があまりにもまばゆいからか、それともあの子守歌がいつにもまして大きく聞こえるからか、ヴィオラにはわかりませんでした。でも確かにわかるのは、今ならこの子守歌の主に会えるのだということでした。どうしてそう思ったのか、ヴィオラは不思議に思いました。でも、会いに行くなら今しかない、と強く強く思ったのです。
 ヴィオラが家の外に出ると、突然風が強く吹いてきました。その風はまるでヴィオラをどこかへいざなっているように感じました。見慣れた街の風景が、どこかいつもと違うものに見えました。まるで風が森の木々を揺らすような、不気味な音が聞こえてきました。歌声はどんどん大きくなっていきます。これは夢なのかもしれない、とヴィオラは思いました。いつの間にか街明かりがすっかりなくなっています。燦然と輝く三日月と、遠く聞こえる子守歌だけが頼りでした。子守歌に混じって、風の音と木々のざわめきが聞こえます。ヴィオラはずっと歩き続けました。
 やがて、遠くでほのかに光る何かを見つけました。足早に近づいていくと、そこには一人の女性が、まるで絵本に出てくる魔女のような女性がいました。こんな夜中にこんなところにいるなんて、きっと彼女は魔女に違いないわ、とヴィオラは思いました。その魔女はヴィオラに気が付くと、歌うのをやめ、薄い笑みを浮かべました。
 「こんばんは」とヴィオラは言いました。挨拶が何よりも大事だと言うのが、孤児院の先生の教えだったのです。魔女も「こんばんは」と返しました。初めて会ったその人が、ヴィオラにはどうにも懐かしく感じ、自然と涙がこぼれてきました。魔女はその涙をそっとぬぐいました。ヴィオラは「あなたは私のお母さんなの?」と聞きました。魔女はふっと笑うと「いいえ」と答えました。「じゃあ、私が悲しい時に子守歌を歌ってくれていた?」と聞くと、小さく「ええ」と答えました。幼いころからずっと知りたかった、子守歌の主を、ヴィオラはとうとう見つけたのです。ずっと会いたかったのにどうして会いに来てくれなかったのか、いつも子守歌を歌ってくれていたのはなぜなのか、今日に限って姿を見せてくれた訳は何なのか、ヴィオラには聞きたいことがたくさんありました。そんなヴィオラの疑問を全部わかったかのように、そしてこれ以上の質問は許さないかのように、魔女は言いました。
 「25年に一度の三日月の夜は、魔女の力が一番強まる日なんだよ」
 ああ、やっぱりこの人は魔女なのね、とヴィオラは思いました。そしてもう、この魔女に何かを聞くのはやめよう、と思いました。たとえ自分が何も知らなくとも、この魔女はずっと自分のそばにいてくれると、そう思ったのです。「私、帰るわ」とヴィオラは言いました。「それがいい」と魔女が優しく言いました。それから魔女は大事そうに「ヴィオラ」と名前を呼ぶと、こう言いました。
 「この名を名乗る限り、名前があんたを守ってくれるよ。この名前をもらった魔女は、みんな幸せになるんだ」
 わかったわ、とヴィオラが言おうとしたその瞬間、また風が強く吹き、ヴィオラは思わず目をつぶってしまいました。そうして気が付いた時には、部屋のベッドの中で朝を迎えていました。けれどもヴィオラは、あれは夢じゃなかったと思えてなりません。その日からも変わらずずっと、子守歌は聞こえてきます。もうヴィオラは、ひとりぼっちではありませんでした。いつも自分を想って子守歌を歌ってくれる素敵な魔女がいるのですから。

おしまい

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