アントニーの憂鬱

 太陽が顔を出す少し前の、薄暗い朝のことでありました。私はこの、大きなお屋敷――風光明媚な港町ポートヴェールで一番大きなお屋敷の入り口に立ち、とある人を待ち構えておりました。どうしても、誰よりも早くその人に会わねばならぬ理由が、私にはあったのです。このお屋敷に執事として仕えて早十数年。祖父の代から、変わらず忠誠を誓ってきたにも関わらず、今の私の心持ちは、まるでひどい裏切り者にでもなったかのようであります。チクチクと胸を刺す罪悪感と戦いながら、私はじっとその人が来るのを待ちました。
 やがて、ちりんちりんと鈴の音を鳴らし、自転車にまたがったその人がやってきました。私はこのお屋敷の執事として失礼のないよう、それはそれは丁寧に朝の挨拶をいたしました。郵便屋は軽快に挨拶を返します。それから私は沢山の手紙を受け取ると、急ぎ自分の部屋へと戻りました。
 お屋敷の隅に、執事用に割り当てられた小さな私の部屋。ベッドと、それから机といす、衣装ダンスがやっと置けるような小さな部屋です。私は机の上に先ほど受け取った手紙達を広げると、目当てのものを探しました。さすが、これだけ大きなお屋敷でありますから、沢山の手紙が届きます。そのほとんどは旦那様やお嬢様宛でありますが、一つ、私宛のものがあるはずでした。しかし、それを他の使用人、ましてや自らの仕えるお嬢様に見つかりでもした日には、私はこのお屋敷を立ち去らねばならぬでしょう。優しいお嬢様はきっとただ笑うだけでありましょうが、その愛らしい笑顔を見てしまったら、私はもう二度と立ち直れないと思います。
 さて、やっと目当ての手紙を見つけました。その丸っこくかわいらしい字が、これは私宛であることを告げています。今すぐ封を開けたい衝動を抑え、まずは、それ以外の手紙をあるべき場所へ戻さねばなりません。まだシンと静まり返るお屋敷の中を、物音を立てないようゆっくりと、しかしなるべく急いで歩きます。そして、部屋まで帰ってきたちょうどその時、庭の雄鶏がけたたましく鳴き出しました。気付けば外は随分明るくなっています。もう間もなく、屋敷中が目を覚ますことでしょう。わたしはようやっと、手紙を読み始めました。
 顔も知らぬその手紙の主は、田舎に住む一人の少女であります。きっとまだ年端も行かぬ10歳そこそこの少女ではないかと私は考えております。文通雑誌で見かけ、たまたまやり取りを交わすようになった、ただそれだけのご縁。最近の文通雑誌というのは非常に優れていて、自らの住所を晒さずとも、郵便局を介して手紙のやり取りができるのです。もし万が一にもこの少女がポートヴェールへとやってきたところで、私を見つけることは不可能でしょう。その安心感が、私の気を大きくさせました。
 少女にとっての私は、憧れの街ポートヴェールで暮らす、言うなれば白馬の王子様でした。私としては、少女の誇大な妄想に付き合ってあげている、といった心持ちではありましたが、いつしか少女からの賛美の声が心地よく聞こえるようになっておりました。少女が私に、その愛らしい字で拙い愛を語れば語るほど、自らが心の底で抱えている、叶わぬ恋の気持ちが、つまりは自分の仕えるお嬢様に対する、この淡く切ない気持ちが、どうにも報われるような気がしてならなかったのです。一方で、少女が私に熱を上げれば上げる程、お嬢様への執事としての忠誠心とこの恋慕の気持ちが揺らいでいくように感じてしまいます。
 しかし、もう後には引けません。手紙の中の私は、少女の思い描く私は、185cmの八頭身、足が長くて切れ長の目をしているのです。実際のところがどうであるかは、会うことはありませんから関係ないでしょう。今日の手紙に少女は「あなたと結婚したいわ!」なんて書いておりますが、まあなんとかわいらしい発想でしょう。「ええ、もちろん」と返事を書き出したいところではありますが、そろそろ仕事の時間です。今日も私はお嬢様への思いを胸に秘め、その鬱々とした気持ちを晴らすがごとく、手紙を書いて過ごします。

おしまい

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