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心も感覚も、いつもより、もっと鋭くないと無理。心の技術が必要になってくる。

今年の開催にあたって、必ず読んでもらいたい。
オーガナイザーTOSHI-LOW(OAU)のメッセージ

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2020年、新型コロナウイルス感染拡大を受けてわたしたちの生活は一変しました。人と人が触れあわないこと、それが感染拡大を防止するなによりの方法だったからです。そしていま、さまざまな「新しい生活様式」のなかでわたしたちは過ごしています。今秋、新しいライフスタイルを取り入れたNew (Lifestyle) Acoustic Campを開催します。もし、今年のNew Acoustic Campをあなたがともにイメージできるのなら。

ーNew (Lifestyle) Acoustic Camp 2020の開催が発表されました。
今年の開催についてはどのように考えたのでしょうか。

コロナを蔓延させてしまう条件と、ニューアコを照らし合わせてみました。まず、野外であるということ、そして、密を作りだす場所が少ないということ。人数さえ、しっかりコントロールできれば、各個人の十分なスペースが確保することができる。あとは、ニューアコに来てくれる人たちの多くは「楽しければいい人たち」ではないと感じているから、違った形で開催できるんじゃないかなって思いました。

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そうやって探り出していったら、アイデアも出てくる。現場を制作・運営するスタッフと意見を交えながら、どういう形ならばできるのか、会場のレイアウトを変えたりと、ニューアコの村づくりを、上(空)から俯瞰して想像したときに、また新たな目線で考える面白さが自分の中で感じられました。

ーニューアコというイベントのスタンスも、今回の開催を決めた下地になっているでしょうか。

もともとニューアコは、「ニューアコには来ないでください」というスタンスなんですよね。というのは、みんな来て下さい! というものとは違うんです。自分だけが楽しければいい人、自然や周囲に優しくない人、自分で自分のことを面倒見切れない人は来ないでください。チケット買ってお客さまだ! と思っている人も来ないでください。

金払ってるんだから楽しませろ、みたいなものは、もともとニューアコにはないんです。

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それは、悲観的なものではなくて、それさえできれば「自分たちの自由」が手に入る。そうして来てくれれば、うるさいことを言わずに任せます。

いわゆる一般的に言われているソーシャルディスタンスを取るとか、マスクをするとか。そういう基本の対策なんて各々がすでにしっかり守ってるでしょうし。一緒に来た人たちがバラバラになる必要はないしね。そう考えていくと、いくらでもやりようがあると思えたんです。

それにニューアコは、むちゃむちゃデカいイベントではないし小回りの利く規模でもある。

もちろん、フジロックとかが延期しているのを見ると、一瞬は迷ったけど。だけどニューアコは、自分たちみたいなイベントだからこそ、できるだろうと。

そもそもニューアコは「フェス」だと思ってないからね。前々から言っているけれど、「フェス」じゃなくて「キャンプ」。だからできる。

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例年以上にキャンプの要素を強くして、いつもはお隣さんと密にいたようなキャンプサイトも十分なスペースをとりながらできるし、キャンプする環境としては、ゆっくりしていいものになるんじゃないかなと思います。

ー参加者がイベントを選ぶように、こちらも一緒に過ごせる人を選びたいんだと、言ってきましたよね。

ニューアコが都市型のフェス的な普通のイベントだったら、たぶんやめる流れになっていたと思う。でも、あの広大な自然のなかで…と、考えれば考えるほど、やれるんじゃないかなってやっぱり思えて。人との距離におけるものって、音楽を観に来ている人はじつは分かってる人も多くて、ロックフェスは、密になっている映像ばかりが流れがちだけど、後ろでじっと動かないけどすごい熱量を発して観ている人っていうのもいる。音楽の楽しみ方ってそもそも、ぎゅうぎゅうなライブハウス的なものだけじゃないし、その静と動、両方を知っている人たちは多いと思ってるんですよ。

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—感覚的に距離感を分かっている人は多いと。

ニューアコが掲げているアコースティックで言えば、自分たちが暴れなくても、心の高揚で涙できて、芝生の上で、なんかこう静かに聴ける側面が他のロックフェスより強い気もするし、人とはこれだけ離れなさい、ということではなくて、人間が心地よいと感じるスペースを知っている人たちは多いと思ってて。そこで自分の心がいかに動くか。それで音楽を聴く人たちもたくさんいる。

そういう人たちの間合いのとり方を信じてる。信じてるっていうか、適切な距離感がある気がしています。

ー今回は「ライフスタイル」という言葉がタイトルに入っています。新しい様式。それはニューアコにとってはどんなことでしょうか。実生活でもいろんなことが変わったような、じつはあまり変わっていないような。

変わってないと言えば変わってない…。でも、じつは変わったと思っていて、この変わり方ってなんだろうなって、考えてたんだけど、子どもが使う色鉛筆のクーピーあるでしょ、24色とか34色あるやつ。そのうちの一本がなくなってもわかんないんですよね。よく使う色だとすぐに気付くけれど、中間色のようなもの。ただそういう色って、なくなったとしても、色を混ぜれば代用はできたりして、でも、もうその色そのものは、失われて戻ってこない。

だからこの状況が終息しても、人との距離と心って、俺は全て戻らないと思っています。
全員がいきなりハグをする世の中にはならないというか。習慣のうえでも気持ちのうえでも。

でも、悪いことばっかりじゃない。4月や5月あたりは、家から出るのも緊張していたでしょ? 俺はあの感覚がもともとだから。赤信号で止まっていて絶対に安全なんてことはないし、青信号で渡っていても死んでしまうことがある。そういう感覚で。

人が外を歩くあの緊張感、いつも持っていればいいのにって、つねづね思っているくらい。そうなると、やっぱりいままでみたいに、なにも気にせずに出歩くって感じには戻らない気がしていて、それはクーピーの欠けた色みたいなね。

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まだそれは、何色がなくなったのかは分かっていない気がしてる。何年か経って、「ああ、あの色はなくなってたんだ。あのときに」って、気付くんじゃないかなと。

実際の話、ワクチンができても亡くなった人たちはもう戻ってこないし、その喪失感は消えない。この前まで100の明るさで見えてたものもワントーン低いし、やっぱり変わったんですよね。そのなかで受け入れなきゃいけないこともあるし、心持ちとして変えてはいけないこともあって。

握手やハグができないからって、挨拶しないってことじゃないし。そういう気持ちを伝える手段が変わっていくだけで、人とのふれあうことまで失って、心を失ってはいけないんじゃないかなって思うんです。

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ー物理的な距離ができる分、相手を想う想像力を逞しくしたいですね。

今年ニューアコに来る人は、そういう心も感覚もいつもよりももっと鋭くないと無理。でも人間の大事ななにかが、音楽で感動するなにかが、変わるってわけでもないし、仕様が変わるってなかで、自分たちの心の持ち方ですべては変わる。マスクの下の表情を想像するとかね。心の技術が必要になってくる。

それは生き抜くことだと思っていて、誰かの言うことを守ったからといって、安全なわけではないし、死なないわけでもない。自分の感覚で「危ねえな」と思ったりすることが大切で、そもそも危ないと思ったところに人は突っ込まない。

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ー自分で感じて行動するDIYな精神というのは、まさにキャンプそのものでもありますね。

今年のニューアコは、いままでみたいにプログラムをびっしり埋めることもしないし、朝から晩まで音楽が鳴っているということもない。バンドも少ない。でも、そのかわりに自分たちが立てたテントで過ごす時間だったり、そこで作る手料理だったりを、ゆっくり楽しめて、来たけど、仲間とキャンプサイトで時間を過ごして、ライブを1回も観ないで帰るみたいなのでいいんです。

—ニューアコで音楽は添え物くらいでいいんだと以前にも仰っていました。

奇しくも一番始めに言っていたみたいなことに、現実が追いついちゃってる。むちゃむちゃ何万人も来なくていいし、分かる人たちだけが自分たちの責任を持ちながら自由を楽しんでもらって、音楽も誰が出演するっていうことではなくて、場を楽しむ。楽しむのは結局、自分のテクニックだからね。それをつまんねえなって思うか、新しい感覚や音楽に出会えた! って思えるのか。

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だから、どこにいても自分らしくいる、オリジナルの自分がいられるか?ってことがすごく大事なんだと思ってます。オリジナルでいるためには、つねに状況に左右されない、そういう心も大事だし、逆に状況に順応しなきゃいけないときもあるし。でも、自分を見失わない。それって、自分の楽しみ、自分の好きなことを分かってないといけないし、でもそれさえできれば、どんな状況のなかでも自分らしく楽しく生きていける一個の方法だと思う。そういうのをみんなで学べるんだったら、楽しいですよね。

ーそれってスゴい強さ、生きる力になる気がします。

いまの状況下で、こんなイベントをやるというと、すごく楽観主義だと思われるかもしれないし、いわゆる「こういうときだからこそ、困難を乗り越えて挑戦だ!」みたいな気概とか全然そうじゃないんです。俺はそういう精神でもなくて、基本的に悲観主義で。

なんで悲観主義かって言うと、それで俺は自分を守ってきたから。もしこうなったら、こうなるかもしれないという最悪を考えておくと「生きてるから大丈夫」っていう結論になるから、最終的にリラックスするし、いざその時、本番となったときには、そこにいるだけでラッキーだなって思えるようになってくるんです。

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今年の開催についても、こうなったらああなったらという不安がないわけじゃないです。すごく考えれば考えるほど、だったらこうすればいいんじゃないか?という発想に繋がって、こう伝えたらいいんじゃないか、人数を減らせばいいんじゃないか、本当に分かっている人に来てもらえればいいんじゃないかと。俺は悲観主義の先に死生観があるから、決して勢いで飛び込むタイプではないんで、むしろ去年までのほうが勢いがある感じですよ。

ー最悪の事態の想定をすればするほど、ポジティブな思考になるんですね。

コロナ云々の前に、野外でのイベントだから台風直撃だとか、あらゆるリスクをはらんでいて、中止なんてもともと天気に左右される環境下でやっているわけですしね。これまでだって、ギリギリ台風を免れたとかだし。

でも、イベントがいろいろあるなかで、オリジナルとして、自分たちはなんなのか? ってもう一回考えないと、なんとなく食べ物屋を出してバンドが集まってというのでは、もう伝わらないし、俺が出演者だったとしても魅力を感じないです。

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「ニューアコってなんなんだ?」って問われたときの、自分たちのオリジナリティとしての開催なんだと思う。これをやることによって、状況が落ち着いて、やりやすくなったときに、さらに自分たちがやっているものが画一のものとの違いがでると思うんです。二番煎じだったら、一番の人たちがやればいいし。

ーニューアコを問い直すような?

いろんなものが社会的に止まってしまったんだけど、止まらせてもらったという感じもあったと思います。毎週ライブがあって、スタジオに入って。俺たちも家族とふれあうことや、家にいる時間っていうのも少なくなっていたかもしれない。だから、そこで考え直すこともいっぱいあったし、動いているってことにかまけてるなって思ったこともあります。

だからそういうイベントの意義、毎年開催しなきゃいけないみたいなところにとらわれていたかもしれないですよね。

幸せの価値観も考えるじゃないですか、夜みんなでメシ食いに行くだけであんなに楽しかったんだって。好きなときにフラッと好きなところへ行くっていうことが、こんなに尊いんだなって思う瞬間がやっぱりあって。

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だから、そういうのは心に持っていていいかなと。コロナは一日も早く終息して欲しいと思っているけど、そのとき思ったこととかはね、人間は忘れやすいから。もはや東日本大震災だって、多くの人が忘れている。そのなかでもなにが救いの手かっていうと、やっぱり忘れないことだと思うんですよ。そう思うとこの数か月間で起きているできごとも、忘れてはいけないというかね。

完全体ではないけど、今年のニューアコに来てくれたらそのなかで楽しめることはあるし、頑張って作っていきたいと思ってます。ライブハウスの人たちもそれを考えていると思う。ニューアコは野外イベントだし、自分たちのようなできる可能性の高い人間たちが、いろんなことを始めて、ライブハウスなり、もっと後回しになってしまうようなところに引き継いでいってもえたらと思います。

文/須藤ナオミ
写真/池本史彦

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