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頼朝の特命を京都で果たした北条時政:ダークサイドに落ちる前の話


北条時政はワルです でも、いい時代も

源頼朝の死後、ダークサイドにおち、鎌倉政権を奪う北条時政。
テレビドラマのイメージはいい人ですが、孫の将軍を追放、義理の息子や政敵を「卑怯(ひきょう)な」やり方で殺し、権力を握ります。
今から見たら、人望ゼロ、同じ政権簒奪タイプでも秀吉とはタイプ正反対です。鎌倉という時代が野蛮といえばそれまでですが。

そんな彼ですが、頼朝が軍事政権を樹立する過程では、大変重要な役割を担って、成功を収めています。何をしたのか。

頼朝が目指した日本初の軍部によるガバナンス

まず、チェックしておきたいのは、頼朝の政権獲得ビジョンです。

これこそが、頼朝の凄さです。

朝廷の中で位階をあげ、大臣以上のポストを狙っていくのが、当時の天下取りのやり方です。偉くなるには、天皇に娘を差し出し、次の天皇の地位を確保し、思うように朝廷政府を操るというスタイルです。

頼朝は、誰がどう入れ知恵をしたのか、自分で考えたのか、京都から離れた関東で地域政権を作り、これを京都に認めさせて、大きくするやり方を考えています。

それは、天皇によるガバナンスから、軍人がガバナンスを担うという日本始まって以来のものです。

軍部によるガバナンス-全国各地の軍事指揮と行政を握る

後世の足利や徳川の将軍時代とは違い、新しい仕組みだからこそ、その仕組みは少しずつ進んでいき、あとから見て、あの時が鎌倉幕府の成立だったよね、という見方をされます。1192年の征夷大将軍はその最終工程にありますが、西国支配が確立するのは承久の乱の1221年移行にならないと、鎌倉幕府の全国支配は実現していません。

そこで、軍人の支配権をどう確立するのかにあったのですが、この時代、荘園という土地制度が残っていて、軍人支配を実現するには工夫が必要でした。

守護・地頭の設置=軍事指揮権と行政権

義経にそそのかされて後白河法皇が出した頼朝討つべしという命令。これを頼朝は、利用します。まず、すさまじい怒りをぶつけ、その形を示します。それが時政を京都に派遣するにあたって付けた1千騎の武力アピールです。

これをてこに時政は朝廷に、義経と行家をつかまえるための各地への軍事・捜査権を求め、これを認めさせることに成功します。文治の勅許といいます。

一部の専門家は、鎌倉幕府の成立は、1192年の頼朝の征夷大将軍ではなく、1185年の守護・地頭の設置で実態的な支配権をもったときだと述べる方もいます。

守護とは、国単位で置かれる軍事指揮官、行政官。当時は、惣追捕使(そうついぶし)といわれ、1185年には任務を終え、停止。地頭は国地頭として、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国におかれますが、1186年には一部の機能を残し、停止。頼朝の諸国の守護任命が認められるのは、1191年の建久新制で、その中身は、頼朝が上洛した1190年11月に後白河法皇との協議で決まったものです。

時政は、この他にも京都の治安維持なども行い、「京都守護」ととして、治安維持、裁判その任務は、京都での評判がよかったとのこと。しかし、家来の京都での乱暴な行いなどもあり、京都を退去し、鎌倉に戻ります。この後、前に出てくるのは、頼朝死後、2代目の鎌倉殿を継いだ頼家の権限を制限した13人の合議制メンバーの一人として出てくるまで、目立った動きはありません。

北条時政の人生は4つのステージに分かれる

源頼朝を担ぐまでの前半生 1138年生まれ


~地元の役所勤務と推定、謎、その後天下を握る(執権)
~時政が全国に北条姓のソース(戦国期関東北条は別)
~伊豆に流された頼朝の監視役、娘の政子が頼朝と結婚

源頼朝の擁立から鎌倉殿 平氏討伐まで 42歳以降


 ~1180年以仁王の平氏討伐命令、源氏の動き
 ~1180年8月頼朝挙兵 御家人の中で目立たない
 ~1182年政子が長男(頼家)を出産、亀の前事件で伊豆へ
 ~1184年武田信義失脚、時政駿河守護に就任
 ~1185年平氏滅亡 義経・行家謀反発覚

1185年、頼朝は時政を京都守護(警察長官)に任命。


時政は、4ヶ月京都に滞在、畿内の幕府体制を整備
時政は頼朝の「守護・地頭」設置を朝廷に認めさせる
時政は好意的な評価、鎌倉に戻り目立った活動なし
奥州征伐を経て、上洛まで
   1189年 義経追討 奥州合戦

頼朝死亡を受けた権力闘争で全権掌握は1203年


https://youtu.be/uasqhnU-Cek



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