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刻印された物語たちのために──『86―エイティシックス―』と「条文」をめぐる文芸試論

                             城輪アズサ






序章:はじめに


 十戒。シナイ山においてモーセ、およびすべてのイスラエル人が授かったというその戒律は、その後のユダヤ教・キリスト教を分かちがたく規定した。旧約聖書、出エジプト記における、最も有名な場面の一つだ。しかし本稿が行うのは、そうした「場面」の宗教学的・神学的考察ではない。ここで論点として持ち出すのは、十戒をこの世界において可能にしたインターフェース/メディアである。
 石。十戒を可能にしたメディアとはそれだった。
 より正確に言うならば、それは石板だ。この戒律は石に刻印され、信仰を規定する教条として顕現していた。
 ところで、イギリスの作家、ジョージ・オーウェルの寓話『動物農場』にも、同様の戒律が、教条が登場する。
 「七戒」と呼ばれるその戒律は、川端康雄が注釈で指摘していたように、先述した「十戒」をそのモチーフとしていた。農場主という王を追放した後に成立した、動物たちの共和国。それを規定する条文としてそれはある。しかしそれが刻まれていたのは「タール壁」(注1)であった。石版、あるいは石碑ではなく。
 十戒の石板と七戒のタール壁。その対比は特に後者において重大な意味を持つことになる。なぜなら、この七戒は絶えずリライトされてしまうからだ。ごく単純な禁止や命令から成り立つ戒律。それは権力を握るものの手によって、文字通りの「豚」たちによって書き換えられてしまう。石に刻まれた言葉は、ほんらい書き換えることのできないものだ。しかしタール壁においてはそれが可能になる。テクストを継ぎ足し、解釈を反転させ、条文それ自体を無化してしまうこと。『動物農場』におけるそのような非道は、タール壁というメディアにおいてはじめて可能となった。
 ひるがえって福井晴敏による小説『機動戦士ガンダムUC』における「条文」は、石碑に刻まれた、リライト不可能なものとして立ち現れた。「ラプラスの箱」と名付けられた事物をめぐる、宇宙世紀という広大無辺な架空戦記における戦争(事変)は、「条文」についての物語へと収斂する。そしてリライト不可能な条文が対象である以上、または条文をめぐる物語が展開される以上、それは隠されねばならなかった。テクストそれ自体が存在すること、効力を発揮することは絶えず掩蔽される。
 そして『86―エイティシックス―』における「条文」は、もはやその実体を失っている。国家単位の暴力をその主眼に据えたこの作品は、近代的な民主国家を象徴するものとしての憲法を登場させつつも、それを超え出たところにある暴力を、透徹した目で描き出していた。それはここまでに挙げてきたような、タール壁や石碑などの「メディア」によっては表象されないものとして、人口に膾炙した、漠とした言葉の連なり、非道を可能にする、顔のない力のうねりとしてそこに立ち現れている。
 物語において「それ」がある種の条文であること、政治の裡にありながら脱―政治的な広がりをもつ、力だけが独立した「条文」であることを指し示すのは「回顧録」だった。
 物語の手前、扉の部分で、それは引かれることになる。

「豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない。
 故に、
 言葉の違う誰かを、色の違う誰かを、祖先の違う誰かを人の形の豚と定義したならば、
 その者達への抑圧も迫害も虐殺も、人倫を損なう非道ではない」

                ──ヴラディレーナ・ミリーゼ『回顧録』
 
 そこにある非道は、刻印、という言葉が指し示すようなソリッドな質感を持つものではない。それは先に確認したように、呪いのように漠然とした無貌の「条文」の、意味の(この言い方はいささか安直だが)群衆への広がりだ。
 この物語はしかし、それに反するように、抗うように、「刻印」によって自分と、自分を取り巻く世界の輪郭を捉えようとするキャラクターによって規定されていた。そしてそれを観測し、回顧するところに、物語は立ち上がることになる。
 本稿はこの『86―エイティシックス―』と、先に挙げた二作を主軸に、「条文」が成り立つ時空間と、条文に実体を与える営みとしての「刻印」をめぐる文芸試論を展開していく。それはまた、「石」を──条文・テクストを可能にするメディアの位相を、めぐる批評でもある。
 石。批評の石。このサイト「net stones」はそのようなタームによって規定されている。石、という言葉は比喩性に富んでおり、様々な文脈で持ち出されてきた経緯を持つ。石の上にも三年、一石を投じる、布石を置く──。
 そしてここでは、「石」を、テクストを強固に刻印することを可能にするメディア、あるいはインターフェースと見なしたい。石に刻まれた言葉は、少なくともリライトが不可能な、ある種のドグマとして立ち現れざるをえない。それは時に頑迷さをたたえてわれわれの世界と接触するが、それゆえに無二の価値を持つものでもある。
 そのような「石」と人間の関係についての文芸試論として、批評として、本稿はある。

第一章:箱庭の重力の底で

 
 
 先に示した「刻印」の問題に立ち入る前に、それが立ち上がってくる場としての「箱庭」について考える必要があるだろう。
 ひとつの農場を中心に展開される『動物農場』は当然のこと、『86』も、そして『ガンダムUC』すらもが「箱庭」の原理に貫かれているということ。そうした構造を抜きにして、条文と刻印という主題を追究することはできない。

第一章:第一節:『86』における箱庭──ノスタルジーとディストピア


 
 安里アサト『86』はKADOKAWAグループがレーベルの一つ、電撃文庫による第23回電撃小説大賞〈大賞〉受賞作として、2017年に刊行されたライトノベルである。イラストは『りゅうおうのおしごと!』などで知られるしらびが担当しており、同年には宝島社が主催する「このライトノベルがすごい! 2018」の文庫部門新作1位、総合2位を獲得している。このことからも、当時、この作品がライトノベルの読み手たちに広く受け入れられたことは間違いないように思う。
 あらすじはこうだ。

「サンマグノリア共和国。そこは日々、隣国である「帝国」の無人兵器《レギオン》による侵略を受けていた。しかしその攻撃に対して、共和国側も同型兵器の開発に成功し、辛うじて犠牲を出すことなく、その脅威を退けていたのだった。そう――表向きは。本当は誰も死んでいないわけではなかった。共和国全85区画の外。《存在しない“第86区”》。そこでは「エイティシックス」の烙印を押された少年少女たちが日夜《有人の無人機として》戦い続けていた――。死地へ向かう若者たちを率いる少年・シンと、遥か後方から、特殊通信で彼らの指揮を執る“指揮管制官(ハンドラー)”となった少女・レーナ。二人の激しくも悲しい戦いと、別れの物語が始まる――!」
        
        ──安里アサト『86―エイティシックス―』(あらすじ)
 
 いくつか補足すれば、本作のジャンルはあらすじにおいて主に示されるディストピアであると同時に、ロボットアクションでもある。この1巻において主要キャラクターたちが搭乗する「ジャガーノート」は、最低限の武装と装甲によって成り立つ粗悪な多脚戦車であり、敵である無人兵器《レギオン》との間には歴然たる戦力差がある。にもかかわらず、彼ら──エイティシックスは、戦わざるをえない。
 この逆絶対戦争とも言うべきラディカルな構図は、サンマグノリア共和国の行う(直喩的・確信犯的にナチス・ドイツをモチーフとする)人種政策に端を発したものとして表現されていた。「エイティシックス」は「白系種《アルバ》」と呼ばれる、共和国国民の大多数を占める「白い」人種に対する「有色種《コロラータ》」に付された名だ。かつて・だれかが制定した「条文」あるいは、その解釈の拡大によって生じた歪み。それが戦線とその後方としての要塞の内側(共和国)を通貫している。だから「戦線」は観念的な意味での〈外部〉を導出しはしない。それはどこまでも要塞内の原理に規定された領域を作り出す。たとえその事実が忘却されているとしても。そしてそうした構造が作り出すのは、ガラパゴス的な、他の一切から切断された歪な世界の姿だ。それはまた、それ以外の基本的な世界設計にも表れていた。
 あらすじに話を戻せば、一見してわかるように、それは〈いま・ここ〉の物語ではない。かつて『ガンダム』と、それがコンテンツとしての爆発力を持っていた80年代という、仮想的な現実が個人の生を意味づける箱庭として希求され、提示されていた「虚構の時代」の極相における多くのフィクションがそうであったような架空戦記を描き出すこと。『86』はそのような欲動によって下支えされている。「このライトノベルがすごい!」のインタビューにおいて作者:安里アサトはフィクションの原体験として『機動戦士ガン
ダム』劇場版三部作などの70-80年代のロボットアニメを挙げている。『86』の根底にあるそれら作品の記憶は、『86』へ箱庭性を、ある種の自己言及性・批評性とともにもたらしたといえる。
 また、この作品における暦法は二重性をもつ。「共和暦」と「星暦」である。前者がサンマグノリア共和国においてのみ成り立つローカルな歴史であるのに対し、後者はグローバルな領域に広く共有された記述法である。しかし無人兵器《レギオン》の絶え間ない来襲によって他国との連絡が途絶えた、キャラクターたちが属せざるをえない領域としての「共和国」にあって、グローバルな暦法は意味をなさない。政治的・軍事的な〈外側〉を可能にする与件が、ここでは排除されている。
 ゆえに「星暦」というのは、無意味であることが織り込み済みで、あえて提示された概念であるといえるはずだ。それは時間的断絶を表現するために持ち出された、ある種の幻影だった。そしてこのサンマグノリア共和国はまた、空間的にも他の領域との──〈外部〉との、断絶の中に存立している。これは《レギオン》の来襲に由来する構造だ。そのようにして時間・空間がともに孤立したある種の箱庭として、共和国はそこに立ち現れた。

第一章:第二節:『機動戦士ガンダムUC』の箱庭/『動物農場』の「メディア」


 そして『機動戦士ガンダムUC』もまた、『86』がそうであったような、「箱庭」としての性質を有する。切通理作が指摘したように(『ガンダムUC証言集』)、1979年の『機動戦士ガンダム』に端を発する広大な架空戦記のシェア・ワールド「宇宙世紀」の一部である『UC』は、「宇宙世紀」のもつ円環性、同じ構造の物語が繰り返すという円環性を、純粋なかたちで引き継いでいる。軍事兵器・工業製品としての巨大ロボットが織りなす、地球周辺を舞台としたポリティカル・フィクション。それは視聴者にとっては、常に仮想の現実として、いま・ここの現実からは離隔した領域の出来事として立ち現れてくる。
 こうした「箱庭」の仮構が、フィクションにもたらすもの。それは「言葉」だったのではないだろうか。イデオロギー、クリシェ、ドグマ、教条、あるいは「条文」。そうした諸々の言葉によってのみ貫かれる、純粋な、テクストの庭。それは小説というメディアの特性と結託することで、その本質を露わにする。箱庭についての「物語」は、取りも直さず言葉についての物語──世界を規定する、要石のような言葉についての物語でもある、と。
 だからその言葉が書き換えられること、歪曲されることは、取りも直さず世界の、箱庭の崩壊を意味する。そうした思弁の極限を描き出したのが『動物農場』だ。「飲んだくれの農場主を追い出して理想の共和国を築いた動物たちだが、豚の独裁者に籠絡され、やがては恐怖政治に取り込まれていく」。ちくま文庫版のあらすじが端的に示すように、これは革命によって支配の暴力を追放した後に立ち現れた「共和国」の、その歪曲の顛末を描き出した寓話だった。そしてそのうえで最も重要なツールとなったのが、冒頭に挙げた「七戒」、つまり条文、戒律である。
 この「七戒」は、農場において逝去した、思想的指導者の理念を基礎に持っている。その指導者は後に支配層として台頭する種である「豚」の、老いた一匹であった。彼の提唱した「動物主義」はすべての動物の平等を謳うものであり、それこそが「七戒」の理念、イデアである。だが豚たちの絶えざる政争の中で、「七戒」は何度となくリライトされることになる。解釈を拡大するために句が付け加えられ、そのうちに文それ自体の本質がまったく別のものにすり替えられる。この「言葉の改変」こそが、共和国を独裁の泥沼へと叩き落していく。そしてその終極にあっては、先に挙げた「理念」が粉々に叩き壊されてしまう。
 開高健が指摘したように(「談話・一九八四年・オーウェル」)、これは支配・権力というものの「なぜ(WHY)」を追究する物語だった。いかにして、なにゆえに。権力の外面・実現の形態ではなく、その過程を描き出すことで、「なぜ」という根源的な問いを引き出すこと。これはそれを目的とした物語だった。
 それに対しては多種多様な解が用意できるように思う。しかしここではさしあたり、それを「言葉」の問題、リライトという行為それ自体がはらむ力の問題と捉えたい。
 「タール壁」に書かれた「七戒」。冒頭において述べたように、モチーフ元であるところの「十戒」が石板に刻まれていたことを思い返すなら、この転回はきわめて示唆的である。「十戒」の絶対性に対し、「七戒」は相対性の中に存立している。そしてそうした性質上の対立は、メディア上の特質の対立も意味している。
 繰り返せば、石に刻まれた言葉は書き換えることがかなわない。そして改変可能性を有するメディアが立ち現れ、箱庭を規定するツールとして選択されたとき、そこには悪が、暴力が生まれてしまう。
 ゆえに、こう断じることができるだろう。タール壁に七戒が書かれたそのときに、共和国の崩壊はすでにして始まっていた、と。

第二章:「刻印された物語」


 
 第一章では「条文」を成り立たせる(閉ざされた)時空間としての箱庭について検討し、特に第二節では、そうした環境下で生まれる暴力・悪について『動物農場』の物語から検討した。
 しかしメディアが石へと、それこそ「訂正」(東浩紀)されれば、すべての問題が一挙に解決するかと言えば、そうではない。
 『亡国のイージス』などのポリティカル・フィクション、ミリタリー小説で知られる福井晴敏による「宇宙世紀」ガンダムの一作品、『機動戦士ガンダムUC』は「ラプラスの箱」と呼ばれる事物をめぐる物語として展開された。複数の勢力がそれを追い、また隠す。そうした物語の終盤において、秘匿され続けてきたこの「箱」の正体は、一章の「条文」であることが明かされる。
 その条文の詳細に立ち入る前に、「宇宙世紀」の前提を確認したい。「宇宙世紀」という架空戦記は、地球と宇宙の対立、という基本構造を有している。宇宙開発の進む遠未来、経済的に貧しい、スペース・コロニーに住まう「宇宙移民(=スペースノイド)」と、彼らを宇宙に追いやった「地球人(=アースノイド)」との対立。それは宇宙における独立国家を僭称する宇宙移民たちの「ジオン公国」と、地球人たちの政府「地球連邦」との間の政治的・軍事的対立でもあり、彼らの戦争に端を発した物語こそが「宇宙世紀」に属する数々の作品が抱え込むものだ。
 そしてそのような対立の中で、宇宙移民たちの間に広く共有されていた認識があった。それがジオン公国の創始者であるジオン・ズム・ダイクンが提唱した「ニュータイプ」である。これは宇宙環境の中で生きる人々を、その環境に適応し認知能力を拡大した「新人類」と定義づけるもので、のちにある種の選民思想へと繋がっていくことになるものだが、まさに「ラプラスの箱」の条文は、そうした認識と地続きのものだった。
 ラプラスの箱とは、宇宙世紀憲章──地球連邦政府発足時に定められた取り決め(≒戒律)──の、爆破テロによって失われた最後の一章を指す言葉なのである。
 そこに記されているのは、「ニュータイプ」、宇宙進出に際して現れる可能性のある「新人類」を優先的に政治に参画させる、という取り決めであった。その存在を認めることは、地球連邦政府の根幹を揺るがすことに繋がる。
 だからそれは隠されなければならなかった。無論、その「隠蔽」には複雑な経緯と経過があるが、紙幅の都合上ここでは取り扱わない。ここで重要なのは、それが物語の上では、いかなる改変も受け付けない無謬のテクストとして扱われていた点である。
 リライト・改変の不可能性。しかしそれが、一挙に暴力を、悪を追放することはかなわなかった。その条文をめぐる、「ラプラス事変」と呼ばれる『UC』における一連の抗争は、存在それ自体が、そのような現実のかたちを、困難さを示している。
 石に刻まれた「条文」は、それ単体では、それが効力を持ちうる箱庭において過剰な力を持ってしまう。言葉と人とが剥離したとき、そこには暴力が、悪が生まれる。先に挙げてきた作品たちはともに、そのような現実の一つのありかたを表現していた。
 ここにおいて必要なのはなにか。
 端的に、それは「意思(SENSE)」ではないだろうか。石に条文を刻印する、その意思。その位相。それこそが条文と人、言葉と人を接続させるのではないか。
 それを表現した作品として『86』はある。

第三章:石と意思《SENSE》


 
 『86』において、参照すべき条文・共和国憲法(の実体)は登場しない。それは個人の生を意味づけることも、個人を倫理・道徳に踏みとどまらせることもない。あくまでも、それは無意味な後景にすぎなかった。そしてそのような箱庭の中で唯一力を持つのが「忘却」であり「無視」であった。それはかつて・どこかの誰かが取り決めた「条文」の理念を無自覚なままに継承し、戦線の前線と後方を選り分ける思弁だ。透明化された条文が、それがまとうイデオロギーが、ここにおいて瀰漫している。
 この作品において、憲法に代わって倫理を、道徳を代替するのは「回顧録」を編纂するレーナのまなざしだ。彼女の視点を中心に語られるこの小説はまた、彼女の回顧録でもある。その言葉はかつて条文であったもの──無自覚な継承を規定する、忘却された言葉──をデコードし、再編し、紙の上にプロットし、そして絶え間なく自分の認識を「訂正」しながら、倫理の位相を調整していく。

「豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない。故に、言葉の違う誰かを、色の違う誰かを、祖先の違う誰かを人の形の豚と定義したならば、その者達への抑圧も迫害も虐殺も、人倫を損なう非道ではない誰かがそれを正しいと考え、誰もがそれをよしとしたその時、サンマグノリア共和国の滅亡は始まり、同時にその時に終わっていた」

                ──ヴラディレーナ・ミリーゼ『回顧録』
 
 ここで注目するべきなのは、それが「紙」であるという点である。それは公共の場に開かれながらも絶えずリライトされる可能性を胚胎していたタール壁でも、リライト不可能であるがゆえに諸々の暴力を表出させてしまう石碑でもない。それはどこまでも個人的な記録であると同時に、複製され流通されうる情報でもある。それはその物語の終局にあって、「ラプラスの箱」の真実を全世界へ公表したミネバ──『UC』の主人公の一人──の姿とも符合する。
 しかしそうしたメディアの中での記述には、「刻印」としての性質は薄い。意思(SENSE)はあっても、そこに石(stone)はない。意思が刻印される場、メディアは不在だ。
 そうしたメディアをもつ存在として、シンはいた。
 シン。シンエイ・ノウゼン。それは『86』の、もう一人の主人公だ。多脚戦車「ジャガーノート」に搭乗する「エイティシックス」の少年兵(注2)であり、無人機に宿る「亡霊の声」を聞く異能力を有している。その異能と卓越した戦闘技能から5年もの間戦場で戦い続けた彼は、そこにあって仲間の名前を記録し続ける。
 歴史上多くの虐殺、多くの迫害がそうであったように「エイティシックス」は埋葬されず、そのために墓を持たない。死者を記録するためのインターフェースが、悼むためのシステムが、ここには欠落している。その非道性こそが国家単位の虐殺・迫害を形作る本質なのであり、この箱庭を一箇のディストピアとして成り立たせているファクターだった。
 そしてそれに抗うように、シンは仲間の機体の装甲を回収し、そこに彼らの名前を刻みつける。刻印する。悼むように、あるいは、忘却に、世界に抗うように。戦死の証である/兵士(の兵器)の断片である、アルミ合金に穿たれた諸々の言葉たちは消えることのない情報として、データベースとしてただそこにある。それは名の記録であると同時に、意思の記録でもある。国家に周縁化された人々。けれどたしかにそこに生きた人々。その無数の意思の集合を、シンは背負うことを選択する。あらゆる選択が無化される、世界の極限で、勇壮にそれを選び取る。
 『86』。それはその、意思の軌跡についての物語だった。意思を刻印し、背負い込み、戦い続けることについての物語だったのだ。

終章:おわりに


 
「そう、こう言ってもいいだろう。
 魂が存在するのは、物語を紡ぐためだと。
 人間の脳は、現実を物語として語り直すために存在するのだと。
 人は誰でも一冊の本が書ける、という謂がある。
 それは、人は誰もがひとつのフィクションであるからだ」

                     ──伊藤計劃『人という物語』
 
 人にとっての「物語」、とりわけ、言葉によって織られたそれは、認識において特別の位置を占めるはずだ。現実をデコードし、再編してそこに秩序を与えること。それはきわめて自然な認識の、情報処理のプロセスとしてある。
 唯脳論の立場を採用するならば、認知上、現実と虚構の間に明瞭な差を認めることはできない。斎藤環が言うように「脳は現実と虚構を区別できない」。脳とは、20世紀末から急激な進歩を遂げたインターネットとの関係において、「コピー・転送・記憶の機能を兼ね備えたデジタル・メディアという側面をもつ」。そしてその視点に立ったとき、「現実も虚構も、脳内で生ずる化学的・電気的変化という点では同等の『刺激』にほかならない」ことになる。そうした認知が織る世界のうちでは、物語の、記述のもつ優位性は肥大し続ける。だがそれは同時に、記述というものがフラットになっていくことも意味しているのではないか。
 デジタル・メディアにおいて、記述は単なる情報として、複製・流通可能な記号として解される。それは言葉というメディアの本質であり、そこにこそ価値がある、というロジックには一定以上の正当性がある。
 しかしそうではない記述というものもまた、依然としてこの世界には存在している。それは優位性を失ってもなお、ただそのままに、そこにある。本稿においてはその一つとして、「刻印」を、「石」をメディアとした、意思の刻印を取り上げた。
 そのような仕方での記述を、文芸作品の「物語」から考えるということ。それはいま・ここに生きるわれわれに、現実を解し、自己を提示する、この双方向的な世界との接触の方式についての、一つの異なった視点を提示することができるのではないか。
 そのような祈りの中に、本稿は置かれている。


・注釈一覧

注1:木材にコールタールを塗装したもの。コールタールは、石炭を高温乾留する際に生成される油状物質。
注2:『86』に登場する兵士は基本的に少年兵(少女も含む)である。これは9年にわたる戦争の中で、拘禁し動員することのできる「エイティシックス」が極端に減少したため、人的リソースとして見出される年齢が際限なく下がっていったことに由来する)

・参考文献

伊藤計劃『伊藤計劃記録Ⅱ』(2015、ハヤカワ文庫JA)
宇野常寛『母性のディストピア』(2017、集英社)
川端康雄『ジョージ・オーウェル ──「人間らしさ」への讃歌』(2020、岩波新書)
斎藤環『メディアは存在しない』(2007、NTT出版)
ジョージ・オーウェル著、川端康雄訳『動物農場 おとぎばなし』(2009、岩波文庫)
ジョージ・オーウェル著、開高健『動物農場 付「G・オーウェルをめぐって」』(2013、ちくま文庫)
福井晴敏協力、堀田純司企画・構成『ガンダムUC証言集』(2014、角川書店)
『このライトノベルがすごい! 2018』(2017、宝島社)

・主要参考作品

安里アサト『86―エイティシックス―』(2017、電撃文庫)
ジョージ・オーウェル著、川端康雄訳『動物農場 おとぎばなし』(2009、岩波文庫)
ジョージ・オーウェル著、開高健『動物農場 付「G・オーウェルをめぐって」』(2013、ちくま文庫)
福井晴敏『機動戦士ガンダムUC 1-10』(2010-2011、角川スニーカー文庫)

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