「余計」なウマ娘は嘘つき
writer:Tofu on fire
はじめに、或いはミスターシービーへ、その後ろの吉永正人へ、もしかしたら寺山修司へ
「ウマ娘」というメディアミックスコンテンツがあります。2021年にアプリがローンチされた、実在の(すでに亡いかあるいは繁殖入りした)競走馬が美少女となり、アイドル活動を兼任したアスリートとして走り、現実の過去にあった競馬の名勝負をさまざまなコンテンツで追体験することのできるものです。漫画、アニメなど多角的にコンテンツを展開しており、みなさんももしかしたらコンビニなどでコラボレーションした商品を見かけたことがあるかもしれません。
はじめに言うと、このコンテンツの内包している「問題」は複雑です。ゆえに、稚拙な評論文となってしまうことをお許しいただきたいのですが──これは単に引用文献をひとつふたつしか用意できなかったことへの言い訳に過ぎないのですが──、現在3周年を迎えたこのコンテンツを少しでも考え直すきっかけになってくれれば、とおもい筆をとっています。
この「問題」は非常に容易で、「ウマ娘」を好きな競馬ファンと「競馬」を好きな競馬ファンの視点があまりにも異なることです。ようは、「ウマ娘」には現実を直視するレンズを歪曲する力がある、わたしはそう思っているのです。
「創作ウマ娘」というコンテンツがあります。未だ現役中の競走馬であったり、実装(アプリなどで公表されることをこういいます)されていない名馬などをウマ娘にしてイラストを描いたり小説を描いたりするこのコンテンツは、主に女性(確認が取れているわけではありませんが、コンテンツの性質上百合が多くなるので必然的に描写がフェミニンになります)向けのフォーマットを使って競走馬の愛らしさや勇猛さ、現役での実績や《他の競走馬との絡み》を描いたりします。純粋に、というより過剰に実在馬を愛でる習慣です。
じつは、多くのウマ娘ファンがこのような視点を内包しています。「アオラキ」という競走馬が居るのですが──気のウマ娘「ゴールドシップ」の産駒であり白毛ということで人気を博しました──成績が芳しく無く、地方へ転厩することになりました。その度Xで話題を集めたのですが、多くの感想が(当時のアーカイブが取れておらず申し訳ありません)「アオラキが見られなくなるので悲しい、地方に行かないでほしい、アオラキは頑張ったね」という心温まるものでした。
心温まる? どこがでしょう。
わたしが初めてウインズに行き馬券を買った時に見た未勝利戦では、真っ白でヨボヨボの芦毛馬が大きく先陣に遅れをとって殿負けでゴールしたのです。
彼らはその馬に対して「頑張ったね」などという言葉をくれてやるのでしょうか?
わたしが「この馬はもうだめだ」と言った時、おそらくはその馬に賭けていたのでしょう、その芦毛馬によく似た白髪の老爺がため息を深くついてどこかへ行ってしまったのを覚えています。かわいいアオラキには引退馬の名誉とにんじんと目いっぱいの褒め言葉をくれてやり、よぼよぼの馬はコンビーフにするのです。無論家畜ですからトリアージという言葉は存在します──あたらしい人気の取り方が生まれたのですから、これ以上の僥倖はありませんね。
一方の競馬ファンは──少なくとも賭博としての競馬を愛する古式ゆかしいファンですが──較的冷静なほうです。彼らはおおむねウインズに行って勝負をします。2024年4月現在では、少なくとも牝馬だからといってレガレイラを皐月賞で買うなどということはせず、ただ淡々と傾向を見て、淡々と勝負をし、淡々とレースを眺め、ある種の諦念を持って結果を受け止めます。
(手前味噌で申し訳ありません)この手の代表的と言える現在の競馬ファンは、檜垣立哉氏といえるでしょう。
やはりこのタイプ──いえ本当はこれが本当の「競馬」ファンであって「ウマ娘」ファンは単なるフェティッシュに過ぎないのですが──の本質は賭博とままならなさであり、ままならない現実と強引に向き合う手段のひとつにすぎないのです。
さて、ウマ娘の成立のひとつの大きなきっかけになったのが寺山修司であるといえます。なぜ、そのような大きなことが言えてしまうかというと、「ミスターシービー」の存在が(おそらく)ターニングポイントとなっているからです。
ミスターシービーは、寺山が最後に目撃した馬であり、三冠馬でした。そして、彼のお気に入りの騎手吉永正人のお手馬でした。ようはシンザン以来の最後の出世馬を今際の際に見たのです。
その落し子として、ミスターシービーは寺山修司の要素を持っており、彼女のストーリーシナリオでは寺山の詩が引用されており、シービー自身も短歌というじつに近い(ようで遠い)趣味を持っています。──まがい物を掴まされている気分になるくらいには類似点があります。全く似ていませんが。
寺山は当然賭博タイプの競馬ファンであったのですが、同時に彼は詩人でありものを書くことができました。故に、時代を反映したある種浪花節的なエッセイをいくばくか残すことが可能であったのです。彼がハイセイコーの歌の詞を作ってやったことや、テンポイントが夭折した際に詩を詠んだことなどはインターネットを少し検索してやればすぐに出てきます。
ようはドラマを競馬に作ってやったのが彼であり、それに便乗したのがウマ娘というわけです。
しかして寺山のスタンスとウマ娘のスタンスには根本的なちがいがありました。
これらの背景をまとめた上で、いくつかウマ娘に対して指摘したいことがあります。──わたしは創作ウマ娘界隈の端くれにいる人間です。これらの指摘がそれらに活かされることを祈るばかりです。
ひとつめの余剰:応答可能性
大抵の人間は呼ばれたら「はい」と返事すると思います。しかし馬は返事などしませんね。よもや厩務員などであれば鼻水をたらしたり口を寄せて甘えたりなどするかもしれませんが、馬は口などききません。ましてやファンなど見つめもしないでしょう。馬はただ走り、ただ帰っていくだけです。結果など虚しいものです。馬が走り終えたあと、競馬場には虚空が残ります──そういえば、寺山は競馬場の草原がもっとも苦手だとどこかで言っていました。
しかしウマ娘はわけがちがうのです。
──誰の愛馬なの? 彼女らは一体何を見つめて言っているのでしょうか。現実のアイドルのように虚空をみながら嘘を振りまいているのだとしたら、明確に彼女らには応答の能力があるということになります。馬と違って。
ウマ娘の二次創作ガイドラインをご存知ない方はいらっしゃらないでしょう。
これはウマ娘ファンたちの間ではセクシー描写の禁止として捉えられています。捉え方に関しては千差万別ですが、「警察」と呼ばれるたぐいの手合いはあらゆる肌色を規制しようと動きます。──エマニュエル・レヴィナスはたしか、他者への愛をエロスと捉えていました。彼は対人、というより対「他者」に関する倫理の人です。しかし、「他者」はフッサールのようにりんごや電車、家畜などに適用できるものではなく、「顔」と呼ばれる概念──ヌミノーゼではないという本人の明確な言はありますが、ともあれ対話できるものにしか存在しない概念であることは間違いありません──が存在しなければこの倫理は動きません。
あるいは対話できるものであったとしたら。あるいは接触できるものであったとしたら。あるいはセックスできるものであったとしたら──の「規約」は、無数の可能性を口封じでそうぞうの彼方(想像でもあるし、創造でもある)へ追いやる一つのくびきとして捉えることができるとおもいます。
「規約」は、わたしたちの「ウマ娘」への眼差しを捉えて禁止しています。
しかしこれはそもそもこのコンテンツが競走馬育成のゲーム「ウイニングポスト」のように実際の馬であれば必要はないはずです。──この付言は美少女が向けられる視線を暗に無視していましたね。申し訳ありません。
ウマ娘には、「娘」がついています。それは二本足で歩き、顔をもち、嘘をつき、そしてセックスへの可能性を(禁止されているとはいえ)秘めています。
これは明確に実在馬にはないものです。馬はしゃべらない。べつにものをいわない。嘘などつけない。対話できない。応えてなどくれない。
この差異が、オールドスタイルの競馬ファンと「ウマ娘」競馬ファンとの趣をことにしています。競馬ファンはただ走る馬が見たいが、ウマ娘由来のファンは積極的にパドックへ出て、馬と対話しようとしているのです。──溢れんばかりのパドックの写真をリポストするウマ娘アカウントの数々。
ふたつめの余剰:意思
基本的に、よほどの賢い馬でない限り、勝とうとかこのレースで走ろうとかは考えないものです。エルコンドルパサーという馬が大レースで2着であった時は悔しがったとか言いますが、それは例外であるから語られるのです。
一般にウマ娘という種族(そういうのがあるんだそうです)は、一般のヒトより闘争心が強くなっているとのことです。──ハルウララが引退馬のはじめの頃凶暴であったように、キャリアを積んだ競走馬はレースを感じて凶暴になるものですが、それらと違うのは、勝とう、このレースを取ろう、という「意思」が介在しています。
──明確に、勝利することへの認識が存在します。勝ちたいという意思があります。われわれ「トレーナー」(ゲームのプレイヤー。ウマ娘を指導する職業のことを指す)は、数多のこういった意思を打ち砕きながら「わたしの愛バ」と3年間を過ごすことになります。「愛バ」は、あるいは家の期待を背負って使命感で走ったり、あるいはいやいや走ったり、様々です。しかし、走ることは変わりません。ターフは意思のぶつかり合いであり、偶然性の賭博ではありません。
ここで、「メジロラモーヌ」というウマ娘の話をします──「シリウスシンボリ」でないのは彼女の意思がここで取り上げるにはあまりに脆弱で幼稚だからです──彼女の大まかな説明としては、綺麗な顔と十分によい出自を持て余し、いえそれを道具に使い、ターフ=レースへのフェティッシュで一方的な「愛」を満たすために死力を尽くす、といった感じになると思います。
現実のメジロラモーヌ号は実際に見目がよく、牝馬完全三冠(トライアルも含めて全て勝利する)という難関をこなしているのですが、ウマ娘のメジロラモーヌはトリプルティアラに対してはさほど興味がなく、自分をかざるアクセサリー程度に思っています(家がキャリアのために獲りたがっているのでできれば嬉しい程度ですが)。
アクセサリーなのです。キャリアアップなのです。
ここで重要なのは、アクセサリーであっても当人がそれを認識していることなのです。
「シンボリルドルフ」は、「全てのウマ娘の幸せ」のために行動している七冠ウマ娘、皇帝、という設定です。しかし実際の皇帝シンボリルドルフ号がそんなことを考えていたかどうかは火を見るより明らかです。
功績が「意思」となっていることを認めなくてはいけません。
ではなにゆえにシンボリルドルフは自分の意思で「全てのウマ娘の幸せ」を謳うに至ったのでしょうか。
みっつめの余剰:計算された不条理、不必然
アニメメディアに於いて顕著な傾向にありますが、ファンはまるで勝つウマ娘がわかっているかのように──あるいはご都合主義のように、「キタサンブラック!」「トウカイテイオー!」「スペシャルウィーク!」と叫びます。そして彼女らはその期待に応えるかのように過剰なまでに自信があり、「みんなの夢のために!」と謳うのです。──ちょうどさっき取り上げたシンボリルドルフが「全てのウマ娘の幸福」を謳うように。
あたかも予定調和であるかのように死や敗北やその他諸々が隠されてゆきます。ルドルフとシリウスとラモーヌの間に本来存在するはずの大器の二冠馬ミホシンザンはいません。息を潜めて消えてしまったかのように消されています。「ミホシンザン」が存在する余地はアプリ版にはありません。(実装されたらそれまでですが)
ルドルフとミホシンザンの四馬身の有馬記念すら、シリウスシンボリに奪われています。オフサイドトラップの天皇賞・秋は、名前すら出ずにサイレンススズカに粉砕されます。ライスシャワーの宝塚の勝馬はダンツシアトルでした。だれが覚えてくれるのでしょうか。
記憶するものがすべて、管理されています。
勝つ馬など、負ける馬などわかるわけがありません。一頭一頭に賭けている人間が現実にはいるのです、そしてその不条理を受け入れるのが賭博、競馬です。──ああ、これは「夢を見せるレース」でしたね。
よっつめの余剰:隠された顔
アプリ版のウマ娘には、G1レースとそれより下の重賞レースで明確な違いがあります。
「ネームド」のウマ娘と「ノンネームド」のウマ娘の出走率が明確に変わるのです。
わたしは1月に見た根岸ステークスを思い出します。あの日はエンペラーワケア、パライバトルマリン、サンライズフレイム、その他諸々が出走していたのでした。パドックで彼らをみました。パライバはいかつかったでしょうか―覚えていませんが。エンペラーワケアは寡黙なもので、黙々と歩いては観客を沸かせていました。しかしそれ以上に沸き立ったのがサンライズフレイムだったのです。飛び跳ねるような歩様は明確に特徴的で、きらめく鹿毛と相まって、とても状態がよく見えました。
結果はワケアが1️着、フレイムが3着です。馬連で勝負していたので馬券には絡みませんでしたが、それでもあの末脚は見事なものでした。
それでも、G3です。あの日見たすべての馬を、「モブウマ娘」にするしかありません。なぜなら、「ウマ娘」は英雄譚だから。寡黙なワケア、軽やかなフレイム、地方荒らしのパライバ、みな「顔」を失ってものになってしまいます。
わたしはそれを見過ごせなかった。
伸びない、伸びない。テキサスシチーはやーっぱり伸びない。
テキサスシチー。寺山修司が「わたしが忘れがたかった馬ベスト10」に入れた馬です。この馬は、東京3歳ステークスでカブラヤオーとテスコガビーの3着に食い込んだが最後、負け続けの情けない馬生を送りました。寺山は彼に拍手を送るという形で応答しました。
我々プレイヤーはどうでしょう? イクノディクタス、ツインターボ、ナイスネイチャ。彼女らの笑顔を見るために一体何人の、何頭の馬を「なかったこと」にすればよいのでしょう?
テキサスシチー、どこへゆくのか。
わたしたちは「ウマ娘」のどこにテキサスシチーの影を見ればよいのでしょう。
終わりに、さようなら寺山修司
ミスターシービーという馬の鞍上は、吉永正人でした。この騎手はとくに愛される騎手で、寺山もそのご多分に漏れず彼のことが好きでした。
彼のお手馬の出世頭モンテプリンスについて、「モンテプリンスの上でにっこりと笑う吉永の顔が見たい」、と馬のほうでなく騎手のほうに情を寄せるくらいには彼は愛されており──その分勝つことができないでいました。
吉永の最大の幸運は、ミスターシービーに出会えたことでした。彼はシービーの三冠により、福永洋一でさえついに達することのできなかったダービージョッキーの栄冠を掴むことができたのです。
寺山が死んだのは五月でした。吉永のダービーは見ずじまいで、シービーの皐月を目撃したのが最後でした。
その後に出現したのはシンボリルドルフでした。彼はシービーを全ての勝負で打ち破り、七冠をとり、アメリカで6着に終わりました。
馬が消えてはあらわれました。その度に人々は盛り上がりました。しかし、彼のような視線を継承する人間はついぞ現れなかったのかもしれません。
テキサスシチー、ホワイトフォンテン、ミオソチス。かれらを誰が覚えるでしょうか。アローエクスプレスの姉であるミオソチスは船橋の競馬へ移籍し、寺山はそれを惜しみ、そのことで船橋のジョッキーに抗議され、みずからの不明を詫びたのでした。
それから、ユリシーズ。馬主になって、馬と友達になったような気分になる人間というのがいったい今の世にどれだけいるでしょうか。
わたしは彼の眼差しが惜しいと思います。しかし、その中に内包されている目線、それが「寺山修司」を継承しているかもしれないし、あるいはそうでないかもしれない。
ネットケイバを見ます。明日は天皇賞(春)、3200メートルの京都競馬場のレースです。テーオーロイヤルが一番人気、ドゥレッツアが二番。それはそうでしょう。
しかし、パドックで馬を見なければ、──あのときわたしがサンライズフレイムを見なければ、彼に恋はできなかったのです。
ウマ娘は嘘の応えを与えます。自分たちが手塩をかけてやればそれに応えます。
だけれど、現実は全く不条理で、愛する馬は勝たず、憎らしい馬が勝つのです。
パドックへ行きたい。顔は見たくない。
ただ一時のオデュッセウス的冒険。
不条理への出会いはそこにあるのです。
参考文献
寺山修司『旅路の果て』 (河出書房新社)
E.レヴィナス著藤岡俊博訳『全体性と無限』( 講談社)