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二つの戦後の詩人たち━━石原吉郎、吉増剛造、野崎有以、雨澤佑太郎をめぐって(第二回)

                           

writer:沖鳥灯 illustration:白濱


3 『長崎まで』(二〇一六)


 二〇二二年十二月二十八日放送『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)でゲストのタモリは黒柳徹子の「来年はどんな年になりますかね?」という問いに、「誰も予測できないですよね。これはねえ。でもなんていうかな。「新しい戦前」になるんじゃないですかね」と答えた。「新しい戦前」とは厭らしい言葉だ。私が現在に照らして「戦前」という物騒な言葉と出合ったのは大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書、一九九八)の一節「なぜ、戦後という枠組みで考えるか、という話題から入りたいと思います。戦後という時間の切り方で考えていくことに意味があると僕は思っているんですけれども、その理由は、ちょっとわざと刺激的なというか覚えやすい言い方をすれば、それは現在が戦前だからなんですね」だった。二十六年前の私は新宿の紀伊国屋書店で打ち震えた。近年では内田樹・白井聡『新しい戦前 この国の〝いま〟を読み解く』(二〇二三)がある。本書は現在を「戦前」から「戦中」と捉えた。本稿は「いまだ戦後後である」に拘泥し、「ポスト戦後」を志向しよう。
 野崎有以(一九八五─)は二〇一五年「懐かしい人たち」で第五十三回現代詩手帖賞受賞。二〇一七年本作収録『長崎まで』で第二十二回中原中也賞受賞。現代詩手帖賞の「受賞のことば」で野崎有以は「これで空っぽにできるかもしれない」と詩を書く理由を述べた。自身の詩を「乱暴」と分析する野崎有以は詩作によって「色即是空」になろうとするのか。後述の雨澤佑太郎第一詩集『空位のウィークエンド』(第三十一回詩と思想新人賞受賞)は表題のように「空位の時代」(上皇・天皇の二重化による空位)を扱った詩篇ではないか。翻って野崎有以も「空っぽ」の志向で詩作しているようだ。「懐かしい人たち」を一部引用しよう。

懐かしい人たち

大将の話した女の子と同じくらいの歳のころ
二階建ての店が立ち並ぶ町に住んでいた
一階は飲み屋だったりスナックだったりした
子供だったせいもあるのだと思うが
いろんな店に入って勝手に座ったり二階に上がったりしても誰も怒らなかった
私の場所だってことだったんだろう
そこで働く人々は苦悩や責任の意味を履き違えずに生きていた

 本作は料理屋が舞台の人情話のような印象を抱くかもしれないが、注目すべきは引用最終行だ。けして「大衆の素朴さ」を標榜するものではない。この「苦悩や責任」は玉音放送で天皇が語った「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の占領下の「苦悩」と天皇の戦争責任が象徴されていまいか。雨澤佑太郎の詩的言語は象徴の多重露光の趣があり、野崎有以の詩的描写は象徴の望遠レンズの感覚だ。後者の目は戦後と現代の喪失的記憶の襞を眺望する。『長崎まで』の表題詩を一部見てみよう。

長崎まで

日付が変わりそうな時間に長崎駅に着いてみたら路面電車はもう動いていなかった
長崎の歌がタクシーのラジオから流れる
「これ、思案ブルースですよね」
「若いとによく知っとるね、こん先にあったキャバレーの専属バンドが歌っとったと」
私のなかの長崎駅は繁華街のスナックのなかで流れる歌謡曲で完結している
キャバレーの演奏特有の防音壁を穏やかに押すようなやわらかい音だ
ものがなしい歌詞のなかに陽気な旋律が漂うのは不自然なことではない
そうしないと誰も生きていけない
繁華街に地域差とか国境みたいなものはない
それが私にとっての救いだ
長崎は雨の歌ばかり
キャバレーから生まれた歌には雨が降る
どこの繁華街も湿気を帯びている
それは誰かの涙だったりため息だったり
日が当たらないからずっとそのまま雨が降ってる
「曲のおわりにフルートばふいとる人がこん曲ば作ったとよ」
かすれるようなフルートの音には見せかけではない自力をともなう芯の強さがあった
「そんすぐ近くのキャバレーで前川清が歌っとったと。前川清は背ば高いけん、長崎は今日も雨だったの広告ば作るとき、一人だけしゃがまされとよ」
キャバレーはいまでもあるような気がしたが
運転手はキャバレーの跡地に建ったホテルの前で私を降ろした
ホテルから繁華街のネオンが見えたら部屋を出るだろう
ホテルに泊まるのはやめた

 戦後詩を象徴詩で革新した「荒地派」(鮎川信夫、田村隆一、西脇順三郎、吉本隆明ら)は準時代的な戦争体験に抗し、「深刻な主観性」の反時代的な詩を理論と実践で成した。対して「長崎まで」に「深刻な主観性」はない。「準時代」でも「反時代」でもない野崎有以と雨澤佑太郎を「空位の時代」と捉え、「ポスト戦後詩」とカテゴライズするのならば「脱時代」志向の詩人たちといえるだろう。ところで日本において戦争詩はタブーである。戦争賛美、戦意高揚などの準時代的な戦中においての抵抗詩人では秋山清がいる。『白い花』が代表作。荒地派は戦争詩から戦後詩へ断絶なく移ったと吉本隆明は評した。荒地派は戦争を忌避せずに向き合った。他方でポスト戦後詩はどうなのか。戦争体験がないのだから戦争と向き合うことは知識を介しての体験に留まる。野崎有以と雨澤佑太郎に戦前・戦中・戦後への志向性があるのは彼らの詩を読めば容易に汲み取れるだろう。あくまで知識の志向だが、私見や印象で戦後は扱わない。むしろ戦後と距離が生まれ、よりパースペクティブが保てている。その知識は特定の信仰ではない。両者の信仰心は知る由もないのだが、「空位の時代」で戦後の知識を渉猟し、彼らは詩的言語の多重露光と望遠で脱時代の世界を映じる。エミリー・ディキンソン「これが詩人というもの──詩人とは」を引こう。

これが詩人というもの──詩人とは

これが詩人というもの──詩人とは
ありふれた意味のものから
驚くべき感覚を──
また戸口で枯れてしまった

ありきたりの草花から
すばらしい香水を抽出する人──
わたしたちには不思議です──前に
自分がそれをとらえられなかったことが──

いろんな絵を、発掘して見せる人──
詩人とは──そういう人で──
わたしたちを──反対に──
絶え間ない貧困にふさわしい者とします──
 
分け前については──とんと無頓着で──
強奪しても──損害を与えられない──

詩人は──みずからが──財産で──
時間の──外にあるのです──

 戦後詩の石原吉郎『サンチョ・パンサの帰郷』の読後はシベリアの雪原が広がった。そこに戦争の影はなかった。自然の大地「時間の外」としての雪原だった。野崎有以『長崎まで』は読後に電車の座席がイメージされた。
座席は「空っぽ」で昼下がりの斜光が注いでいる。「時間の外」のイメージだ。戦後詩とポスト戦後詩の詩人は「深刻な主観性」と「空っぽの主観性」が「時間の外」へむかう。それは必ずしも詩人の特権ではない。われわれ大衆も詩人の詩を鑑賞することで「時間の外」にいるのだから。(つづく)

参考文献
野崎有以『長崎まで』(思潮社)
『対訳ディキンソン詩集』(岩波文庫)
吉本隆明『詩の力』(新潮文庫)
細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』(中央公論社)
『現代詩手帖』(2015年5月号)
安彦良和『革命とサブカル』(言視舎)
カント『純粋理性批判』上中下(岩波文庫)

次回予定 2024.3.3.up

二つの戦後の詩人たち━━石原吉郎、吉増剛造、野崎有以、雨澤佑太郎をめぐって(第三回)

                              沖鳥灯

4 『空位のウィークエンド』(二〇二三)

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