透明な社会と、その敵
文責:雨土(清水雪人)
私が初めて氏の作品に触れたのは、2019年の夏のことだった。『ハーモニー』というのがその本のタイトルだった。私はまだ13歳だったが、『ニューロマンサー』を読んだことがなければ『メタルギアソリッド』も聞いたことがない、そんな青二才であった。知っているSFといえば、兄が持っていたボロボロの『1984年』と、自分で買った『華氏451度』くらいが関の山だったろう。だから、私が『ハーモニー』を手に取ったのは、ほとんど賭けに等しい行為だった。果たしてその賭けは、負けに終わってしまったのだが…………
この本を初めて読んだ時に感じたのは、困惑、だった。何を言っているか、まったく分からなかった訳ではないし、面白くなかった訳でも、勿論ない。ただ、この本の中に、私の求めている類の開放感がなかったというのは確かだと思う。それはこう言い換えることができるかもしれない。この物語には、「とりあえず」の終わりしかない、と。「とりあえず」の終わり?
例えば、この本の3年後に読む『虐殺器官』では、「とりあえず」の終わりがないのだ。ここでは、クラヴィスが最後まで嘘をつかなかったという仮定に則って話を進めていくのだが、その場合『虐殺器官』では、問われるべき問いが払底している、ということになる。
その問われるべき問いは何かというと、「それでもなお真実は告げられるべきか」というものである。読者には『虐殺器官』の375~377頁にかけて行われる、クラヴィスとウィリアムズの対立を思い出していただきたい。そこでは、アメリカを混乱に陥れるだろう真実を、それでもなお暴露すべきか、そうでないかが問いに賭けられている。クラヴィスは前者で、ウィリアムズは後者だ。しかしながらご存知の通り、ウィリアムズは死んでしまうのである。その結果、クラヴィス一者のみが真実を握り、アメリカを混沌へと導くこととなるのだ。(なお、そのままジョン・ポールを逃がすという手段もあったが、これもまた封殺されている。)
ただ、ここでウィリアムズが死ななかったとしたら、どうだろうか。恐らく、クラヴィスと殺し合いをすることになったろう。しかし、物語を牽引してきた「ジョン・ポールはなぜ虐殺を引き起こしてきたか?」「ジョン・ポールはどうやって虐殺を引き起こしてきたか?」がもう既に判明している時点にあって、それはだらしない展開となったろう。なので、ウィリアムズがあそこで退場するというのは、ある種必然的なことだったとも言えるのだ。だが、そうしたことによって、先に挙げたジレンマは払底してしまったのである。だから、『虐殺器官』には「とりあえず」の終わりがなく、ただそうなるところの終わり、妥当な終わりしかなくなってしまった。
氏はそうしたジレンマの消失、問いかけの流産を、ちゃんと認識していたように思う。だから、氏が『虐殺器官』について「爽快感をめざした」と言っているのは、その物語の性質を鑑みるに、適切な采配だったと言えるだろう。また氏が、後年『ダークナイト』(2008年)に深く共鳴したのも、ノーラン監督によるジレンマの扱いに共感したからではないだろうか。『ファイト・クラブ』(1999年)や『マトリックス リローデッド』(2003年)も同じことが言えそうなものだが、今回は贅言を致すまい。
────長くなってしまったが、本題である『ハーモニー』のジレンマについて考えてみよう。
私の意見は、『ハーモニー』には「とりあえず」の終わりしかない、というものだった。百点満点の答えが提出されたわけでも、まったく別の問いがジレンマを置き換えたわけでもなく、ジレンマはただそのままに、「とりあえず」の終わりが物語を停止したのみだ、と。ではそのジレンマとは何だろうか。
作品中そのジレンマは、「人為は全て生存競争に基づく」という科学的事実に基づいている。つまり、私の感情は生きる上で必要だったからそうなるよう進化したまでである、ということだ。私が涙するのは感動的だったからではなく、そうすれば生存確率が向上するからであり、私が虐殺に憤慨するのも、そうすれば生存確率が向上するからだ、というわけである。
これは先に挙げた『虐殺器官』の「真実を告ぐべきか、告げぬべきか」というパレーシア的逡巡と通じている。『ハーモニー』の「人為は全て生存競争に基づく」という事実の衝撃は、作中だと次のように表現されている。
この事実が暴露されれば、全ての倫理は立ち行かなくなるだろう。なぜか。
それは、その倫理でさえも生存上の必要に応じて作られたからだ。
例えば、私はあなたにこう聞く。「どうして人を殺さないのか」と。あなたはこう言うだろう。「倫理的に反することだから」と。或いは「経済的に考えて不利益」という答えも、もしかしたらあるかもしれない。
だが、これらの考えが全て「生存上の必要に応じて」作られてきたとしたらどうだろうか。これらの回答が「私がそう思ったから」でさえなく、もっと根本的に「生きるための手段として妥当だったから」で説明できるとすれば。
だとすれば────、私たちの倫理は絶対的であることをやめるのではなかろうか。我々が合意してきたところの絶対的な倫理、「姦淫するなかれ」「殺すなかれ」「盗むなかれ」「貪るなかれ」といった倫理は、それ自体で絶対ではなくなり、生存淘汰の決定論によって、相対化されるのではないだろうか。
『ハーモニー』は、この問いに対して、そうだと答える。全ての人為は生存淘汰の決定論に従っている、と。人間を人間たらしめるもの、自分を自分だとメタ認識する能力──それは俗に「意識」と呼ばれる──は、その論理に従って淘汰され、そうして人間は人間であることをやめるだろう、と。その世界での人間は生きることしかできず、しかしこれまでもその論理に則ってきたため全ての人為はこれまで通りで、よって世界は普通であり続けるだろう、と。そしてその社会では、当然自殺者は存在しない。
全てが「生」によって完璧に統御される社会。その社会像はその実、構成員に意識があった時代の生府と何ら変わらない。
それゆえミァハは、トァンは、キアンは、三人での集団自殺を企てたのではなかったか。自殺こそが、「生」を強要する社会に対する強烈なノーサインだったから、自分が自分のものであり、生府のリソースではないことを示す、最も強力な手段だったから…………。
私は初め、期待していたのだった。トァンたちが確固たる「主体」を掴み取る、その瞬間を。そうすれば、私の感じている閉塞感に開放が、与えられたかもしれないから。
『ハーモニー』で私が何より面白く読んだのは、三人が心中しようとするシーンだった。そこでは、代替不能で還元不能で唯一で至高で絶対的であるような「主体」が現れ出てくるはずと、私はそう考えていたからだった。
だが、その瞬間は訪れなかった。実際『ハーモニー』において主人公が「主体」を手にするシーンは殆どない。あるにしても、第四部は最後の意識が消失する場面にあって、「わたし」が無化とともに確認されている、といったところか。ただここの書き方も曖昧で、「主体」が手に入ったかどうかは、些か判然としない。もしかすると「主体」は、そういった体験後に左脳で整序されるものなのかもしれない。もしそうなら、「わたし」の根絶した未来にあって、それはもう叶わないことなのだろう。
いずれにしても、私は「主体」がいかなるものかを知ることは出来なかった。しかし、最もプライベートな点では、他者もまた排斥されることを踏まえれば、それもまた道理であったのだろう。これは、18歳になった今だからこそ言えることでもあるが。
さて、ここでジレンマの話へと戻ろう。この作品において、ジレンマは次のように提出される。すなわち「意識はあるべきか、或いはないべきか」と。もしあるとすれば、人々は戦いの神の名のもとに殺し合いを続けるだろう。もしないとすれば、人々は調和の神の名のもとに安寧に暮らすだろう、しかし屍者と変わらぬ心無き存在として。
『ハーモニー』にあってこの問いは、『虐殺器官』よろしく暴力的な解決を迎えない。確かに最後は一者の勝利に終わるが、その選択に至るまでの蓋然性は、五分五分のままに保留され続けているのだ。トァンがミァハと対峙している時から、コーカサスの山脈に二人連れ立つその時まで、そうなる可能性はずっと半々だった。二人の恣意から離れてコインは回り続けていた。最後の最後、裏が出てしまうその時に至るまで。
『ハーモニー』の刊行インタビューにおいて、伊藤計劃氏はこう語っている。
そういった問題意識があったからこそ、『ハーモニー』は「とりあえず」の終わりという後味になったのだろう。私はそう推測している。もちろん、私の洞察が絶対に正しいなどとは露とも思っていないが。
さて、『虐殺器官』を読んだ時の話をしよう。16歳の春、私が上京していた時の話だ。衣類に膨らんだキャリー・ケースには『虐殺器官』が取り出し易い位置に差し込まれていた。
その時、私は新大阪駅のスタバで抹茶フラッペを飲みながら、柔くなったクッキーを齧っていた。出発時刻の一時間前とかそれくらいだったと思う。出発前の人々が集まる改札前は、昂揚感で手持無沙汰な人間が多かった。意味もなくコンビニに行き、意味もなく土産屋を一瞥するような人間が大半だった。私は行動経済学の本に書いてあったスタバのブランディング戦略について思いを至らせていたり、道中の三時間を如何にして凌ごうかなどと散漫に思考を移ろわせた。ただその間も、出発を知らせるアナウンスはずっと鳴り響いていた。改札口の内外を絶えず人々は往来し、新幹線の両輪は絶えず天井を震わせた。私は何かひどく白々しいものを感じ始めていた。そうして気づけば、おにぎりを二つ買い上げていた。やってしまったと思った。
コロナ禍の新幹線を知っている人間なら、その中で食事するのがどれほど困難かを知っているように思う。海苔が破れでもすれば、誰かの顰蹙を買う、そんな世界なのだ。だから私がすべきことは、ただペットボトルの水位を下げること、ホロヴィッツの「月光」第三楽章を聴くこと、伊藤計劃氏の『虐殺器官』を読むこと、時々車窓に目を馳せること、それだけだった。
その頃の私ともなれば、『ニューロマンサー』は読んでいたし『クローム襲撃』も勿論読んでいた。『世界の中心で愛を叫んだけもの』『死の鳥』といったエリスンの傑作群も読んでいたし、ドストエフスキーは『罪と罰』を何度も読み直していた。特にスヴィドリガイロフが好きだった。助兵衛親父と言われてはいたが、後学のバタイユ読解にあって重要なキー・パーソンでもあった。そしてその頃からだろう、小林秀雄も能動的に読み始めていた。『人間の建築』と『罪と罰』の下巻は、何度も読むうちにカヴァーの背が千切れかけるほどだった。
つまるところ、私は活字中毒者の草創期にあった。
そうして読んだ『虐殺器官』は、確かに難しいところはあったものの、どう考えても傑作だった。スカイツリーを遠巻きに眺める客室で、この本は『ニューロマンサー』をジャパナイズしたもの、という粗雑な感想を抱いては、悦に入った。煌々と照る建築群、サイレンの鳴る大通り、清々しいまでに人称性を欠いた部屋の空気感、それら大都市の無慈悲を吸い込みながら、私は『虐殺器官』の面白さを全身で体感していた。粗雑で蠱惑的なオブジェクトが東京の街を揺蕩っていたが、それと同じくらい『虐殺器官』も煽情的だった。本当に全てが輝いて見えていたのだ、────私は静かな絶頂期にあった。
さて、『虐殺器官』を『虐殺器官』たらしめているものは多くあげられるが、私はそこに「使い捨て感」という特徴を挙げたいと思う。
例えば、この作品の中には「ドミノ・ピザ」「マーズバー」「オニオンクリーム」「ブドヴァイゼル」などの食品が登場する。また作中の「FEDEX」「Kマート」「CNN」「マック」「MIT」といった組織から、「モンティ・パイソン」「エクソシスト」「ケヴィン・ベーコン」「リドリー・スコット」「クロサワ」といった人物や作品に至るまで、多くは実在だ。ここでは、そういった小道具がこの作品の想像力を底上げしているし、近未来の卑近さを際立たせているのだと言えるだろう。実際に氏も「ディテールを異様に細かくしていけば、普通のことを書いてもSFになる」と語っている。
さて、こうしたジャンクを一気に推し進めたものとして、我々は『ニューロマンサー』もまた読むことができるだろう。「ホサカ」「オノ=センダイ」「JAL」「メルセデス」「富士通」「ティスエ=アシュプール」といった虚実入り混じる固有名詞の使い方は、確かに両者共通している。しかし『ニューロマンサー』を読むにあたって重要なのは、そうした語彙のジャンクさを、そのまま人命にも適応したことではあるまいか。というのも、この作品では「死」さえもジャンクなものとして扱われている。例えば、作中における「脳死」の多さがそうであり、またリンダの最期がそうであり、そして記憶屋ジョニイの最期がまたそうであったろう。しかし、そうした「命が安い」という含意がなければ、リンダとの邂逅はかくも切なく、哀しいものになりえただろうか、私は問うてみたい次第である。
私の答えを言うならば、否だ。
氏もまた同じことを意識していたのではないだろうか。かれは人命のジャンクさを虐殺行為に託しながら、同時に、記号やイメージのジャンクさを消費行為に託してもいた。そうすることで、『虐殺器官』は繊細な感性と粗雑な戦場とに折り合いをつけていたのではなかろうか、と、そう私は考えている次第だ。
ところで、『ニューロマンサー』について氏が何と言っていたか、ここで思い出しておいて損はなかろう。
つまり、『ニューロマンサー』で描かれる近未来社会は諧謔の調子を帯びていないと、そう氏は主張するわけである。
恐らくそれが一番顕著に表れているのは、《スクリーミング・フィスト》の挿話であろう(156~160頁参照)。ここでは確かに「軍事裁判」「既得権益」「ウォーターゲイト化」といった後ろめたい語彙が導入されてこそいるが、そこで記述されているのは、結局のところ「ウィリス・コート大佐の過去」でしかない。国家の腐敗は、むしろ舞台装置として後景化しているといった方が正しい。
ではここで『博士の異常な愛情』を観てみよう。二つの超大国は互いを牽制すべく軍拡競争に勤しむが、たった一人の狂人のせいで、地球規模で共倒れすることとなる。……さて、ここで皮肉られているのが何か。それは言うまでもないことだ。自国の保護のために競争した結果が「破滅」という、極めて根本的=過激なブラックジョークを見れば、すぐそれと分かるはずである。
また、『時計仕掛けのオレンジ』でアレックスが最終的にどうなったかについて、考えを巡らせるのも悪くはないだろう。不甲斐ない大人たちはどのようにしてアレックスを更生させ、そして再更生するに至ったか。そこでどう国家が立ちまわったかについて。
或いは、『華氏451度』でモンターグの妻は最終的にどうなったかを考えてみよう。絶え間なく流れるテレビの放送、「パンとサーカス」を地で行く狂騒、その遠因として現る社会の病巣。我々はそこで国家がどんな衆愚政治を行なっているかを目撃することだろう。
閑話休題、ここで『虐殺器官』の話に戻りたいと思う。
正直なところ、本作における国家の行動論理は頗るクリーンである。それこそ、虐殺さえなければ生府と同じくらいに清潔だと言える。なぜなら両者とも、「構成員を守る」という共通目標を有しているからだ。その為に、かれらはデータ解析をして暗殺対象を確定していく。殆ど『ボーン・アイデンティティー』と同じくらい無機質な論理である。
だが、ここにある極めて機械的な操作を、我々は見逃すべきではない。上院議員曰く、「戦争が、ショッピングモールのBGMのようにサラサラと、どこかから聴こえてくること。二十一世紀のわれわれには、そうした世界の在り方が必要だ」(p392)と。つまり、国家は必要だから暗殺したのだ。暗殺したかったからではない。飽く迄、目的は平和なのだ。そして目的達成の為には暗殺が必要不可欠だった。だから暗殺した、と、実はそれだけなのである。この、どこに間違いがあろうか?
ここでクラヴィスが「かなり早い段階で、スキャンダルは問題でなくなった。」「すみやかに、自動的に。」「英語による虐殺の深層文法は、あっという間にアメリカ全土を覆いつくした。」(p392)と言っていることを押さえておこう。あたかも、虐殺が完成する素地が元々あったかのような言い草には、我々も深々と注意を払っておく必要があるのではないだろうか。
平和が絶対命令となるとき、平和が権威そのものとなるとき、命令された人々は、容易に対岸へと火を放つことができてしまう。ミルグラム実験について、氏が意識受動仮説と劣らぬ興味を示していたというのは、かくして納得することができるだろう。透明な社会では、透明な悪こそが問題なのだ。
さて、場当たり的に思考が発展していくのを抑えられないので、ここからの論理は少々飛躍的になることを始めに断っておく。
まず私は、『虐殺器官』『ハーモニー』がジュヴナイル小説として分類されているのを、どこかで見たことがある。たぶん高校時代に渡されたパンフレットにそう書かれていたのだろう。しかしながら、これは中々興味深い分類であると言わざるを得ない。
というのも、二作とも「主体の再発見」が裏テーマとして採用されているからだ。俗っぽくなるのを承知でラカンの図式に当てはめるならば、クラヴィスは母親の欲望を痛感しつつも、その対象が何であるかを知ることができずにいた。父親はすでに自殺していたので、父の名における象徴作用がキャンセルされていたのだ。よって、クラヴィスはカフカの『城』よろしく〈去勢〉を延期されてしまう。そしてそのまま、巻末に至るまで〈去勢〉が訪れることはないのだ。トァンもまた、社会という母胎において〈去勢〉を試みるが、────とここまで書いて自粛しておく。しかしながら、氏が『ハーモニー』における意識が消失するシーンにあって、ラカンの「アニファシス」を想起したのは、五分五分の確率であり得ると私は考えている。それこそ、氏は、ポスト・モダンに従属するのは御免だと思っていただろうが…………
いずれにせよ、そうした「主体の自立」の物語として見るならば、かような「ジュヴナイル小説」という登録も道理であるように思われるのだ。なお、私はラカンについては全くの門外漢であることをここに記しておく。
次に、『虐殺器官』におけるジョン・ポールという名前について語りたい。
最近『ニューロ』という本が法政大学出版局から出版された。当然読者諸兄は読んでいるように思うのだが、その185頁にはこのようなことが書かれていた。
ジョン・ポール・スコット。
日本語版のブラウザだと検索しても全くヒットしないが、英語版でJohn Paul Scottと検索すればすぐに出るのが分かるだろう。かれは動物の社会行動を分析した、著名な動物学者である。
なお、かれの研究書は邦訳されており、これも『ニューロ』と同じ法政大学出版局から出ている。『動物の行動』という本がそれである。
この本で述べられているのは、専ら動物の行動分析であり、またそれらの進化論的整序と説明である。取り上げられているトピックが多いので割愛するが(気になる方は図書館で借りるのが良いだろう)、その中に「闘争行動」という項目があるのは特筆に値する。そしてその次の項が「性行動」であることもまた重要である。いわゆる「戦いの神と性愛の神」、である。
そして私は、根拠がないことを重々承知で、次の章句に、氏のエクストラポレーションを見たいと思っている…………。
勿論、全ては偶然の一致かもしれない。
最後に、クラヴィスの「童貞臭さ」について語ることは有終の美を飾るに相応しいと思う。かれの「童貞臭さ」は「殺人経験の無さ」とリンクしており、それは主人公による殺戮は殺戮の自覚には至らなかったことを暗示している。またこれは「湾岸戦争は起こらなかった」とするボードリヤールの主張と呼応しているだけに重要だ。
まずここでも、氏がデーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』を読んでいることを前提として話を進めたいと思う。
その本の中には次のような言葉がある。
バタイユ読者としては首肯せざるを得ない発言だが、なぜこの発言を取り上げたかというと、次の氏による発言を受けての事である。
人殺しをしたことの無い人間が童貞と変わらないとすれば、逆もまたしかりだろう。つまり、クラヴィスは殺し屋なのに人殺しではないかのようだ、ということだ。しかしかれは、子ども兵も殺しているのだ。心的外傷を負ってしかるべきシチュエーションでもなお、「かれは殺し屋ではないかのようだ」だと?
そうして浮かび上がるのは、痛覚マスキングという技術の、反成長的側面である。つまり、その技術は「本質的に人間を成熟させない」のである。それは人殺しという強烈な経験を得てもなお、罪悪を超克する意志も、過去に脅かされる恐怖も、抱かずに済むようなフラットの状態へ人間を置いてしまうのだ。それは恐らく、遠隔操作で空爆するドローンの操縦手の心境に似ているに違いない。
ここで、吉見俊哉先生による『空爆論』における『湾岸戦争は起こらなかった』への批判を確認しておこう。
だが、もしウィリアムズが居たらこう言っただろう。「嘘っぱちだろうがなんだろうが、すでに逝っちまってる死体どもは紛れもない本物だぜ」。果たして、殺人を正視しているのは妻帯者のウィリアムズの方であったのだから。
氏はこのことを鋭く見抜いていた。だからこそ、「読者=クラヴィス」という構造を堅持した。もしクラヴィスが殺人者の自分を認識してしまえば、「読者≒クラヴィス」ひいては「読者≠クラヴィス」が出来したろう。いや、氏が恐れていたのは「作者≠クラヴィス」かもしれない。いずれにしても、そこで生じる非対称性を、氏は目敏く注意していたのは間違いあるまい。非対称性や不均衡は、現代の戦争における重要な要素なのである。だからこそ、その人間的矛盾を敷衍したものがクラヴィスであると言い方すらできるだろう。
なお、クラヴィスとウィリアムズが作中で最初に交わした会話がいかなるものであったか、頁を捲って確かめることをここに推奨しておく。氏の「これからも童貞全開で行きますよ!」という発言は、馬鹿馬鹿しいほどに本質的であることを、私は改めて強調しておきたいのだ。
さて、こうして大方の説明を終えた。大体が散発的なメモワールであるが、少しでも面白いと思えるような記述があったとしたら、筆者として幸甚である。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
P.S. ビョンチョル・ハン『透明社会』におけるポルノ論から『ハーモニー』と『新世界より』の性描写について解釈する論考を企図している。