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二つの戦後の詩人たち━━石原吉郎、吉増剛造、野崎有以、雨澤佑太郎をめぐって(第一回)



writer:沖鳥灯 illustration:白濱

詩は証言ではない。詩人はすべからく、経験をいったん内的に沈めて、そこからふたたび浮かび上がってくる言葉をこそ書き取らねばならないのである。詩はいわば、もっとも深められた証言としての抒情であり、もっともなまなましく開かれた抒情としての証言なのだ。
                             野村喜和夫

1 時代区分

 人は時代や世代に左右される群衆、大衆に過ぎず、確固たる個人は近代の幻想だという諦観から始めよう。とはいえ「詩人」は言語表現の卓越した個体である。小熊英二は『〈民主〉と〈愛国〉』(二〇〇二)で、一九四五年から一九五五年を「第一の戦後」(貧困と不安定な社会秩序の時代)、一九五五年以降を「第二の戦後」(豊かな時代の始まり)としたが、本稿では復興期の「第一の戦後」(一九四五─一九九四)と不況期の「ポスト戦後」(一九九五─)に区分して、石原吉郎(いしはら・よしろう)、吉増剛造(よします・ごうぞう)、野崎有以(のざき・あい)、雨澤佑太郎(あめさわ・ゆうたろう)の第一詩集を論じる。時代精神を扱いながら、むしろ新人の詩が生まれる現況へ接近することで反時代的な光を当てたい。
 見田宗介は『社会学入門』(二〇〇六)で「理想の時代」(一九四五─一九六〇頃)、「夢の時代」(一九六〇─一九七〇前半)、「虚構の時代」(一九七〇後半)と区分した。大澤真幸は見田宗介を受けて、「理想の時代」(一九四五─一九七〇)、「虚構の時代」(一九七〇─一九九五)、「不可能性の時代」(一九九五─二〇二〇)という日本の精神史を提示した。大澤真幸は「虚構の時代」の代表的作家として中上健次を挙げ、「十九歳の地図」(一九七三)は「理想の時代の終わりが表現されていました。主人公は何も希望を持たず、地図の上で気にいらないやつの家に✕をつけ、いたずら電話をかける。理想の時代がいかに終わっているかという小説です」(『kotoba』二〇一六年冬号)と述べた。柄谷行人「近代文学の終り」は一九九二年中上健次死去を踏まえた言説だ。「理想=近代」に「現実=反近代」で抗った中上健次の死。ポスト近代文学の村上春樹『1973年のピンボール』の「1973年」という年号は『十九歳の地図』刊行年と卓越した現代作家の舞城王太郎や新海誠の生年として捉え直すことができよう。他方で大江健三郎は「明治の精神」(乃木希典、夏目漱石)や「戦後の精神」(戦後民主主義、戦後文学)を語った。また宮沢章夫は『ニッポン戦後サブカルチャー史』(二〇一四─二〇一七)でサブカルチャー誕生を一九五六年(石原慎太郎『太陽の季節』、エルヴィス・プレスリー「ハート・ブレイク・ホテル」、アレン・ギンズバーグ『吠える』、スターリン批判、経済白書「もはや戦後ではない」)とし、サブカルチャーは「逸脱」と定義。サブカルチャーの特異点を敗戦の一九四五年、大阪万博の一九七〇年、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件の一九九五年、東京五輪の二〇二〇年(二〇二一年延期開催)の二十五年周期で設定した。
 以上を踏まえ次章で、戦後詩の石原吉郎と吉増剛造をみていこう。

2 『サンチョ・パンサの帰郷』(一九六三)と『出発』(一九六四)
 
 第一次世界大戦後の荒廃のなかT・S・エリオットが詩作した『荒地』と第二次世界大戦後の荒涼のなか鮎川信夫や田村隆一、西脇順三郎らが詩誌に『荒地』と名付けたのは宿命的な関係なのだろう。石原吉郎(一九一五─一九七七)は『荒地』(一九四七─一九四八)の後進『荒地詩集』(一九五一─一九五八)の同人だった。石原吉郎の事実上のデビュー作は「夜の招待」(一九五四)で、掲載誌『文章倶楽部』は『現代詩手帖』の前身である。他方で『ロシナンテ』創刊や『ペリカン』寄稿などの詩作をしていた。一九六三年第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』刊行。シベリア抑留から帰国してちょうど十年だった。デビュー作は本書の末尾を飾っている。

夜の招待

窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って──
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる

 『文章倶楽部』選者の谷川俊太郎(一九三一─)は当時二十二歳で、石原吉郎は三十九歳。谷川評は「道徳とか世界観とかいうものを詩にしているような作品の多い中で、これは純粋に詩であるという感じがしますね。この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ出来ぬ確固とした詩そのものなんです」。共に選者の鮎川信夫は「作者の想像力が豊かで、ちょっとメルヘン風な味もあるおもしろい詩です。作者は、窮屈な人生観、社会観などに束縛されていない。言葉自体にのびがあって、作者の想像力が自在の展開をしています。だけど、へたをすると遊びになるということは、やはりあると思うんだ。しかし、この場合は機智的なアイロニックな要素も交えて、全体がひきしまったものになっている」と評した。二つの選評から詩という表現は反時代的な力だといえるだろう。
 吉増剛造(一九三九─)は荒地派の影響下で第一詩集『出発』(一九六四)が石原吉郎のように純粋詩と呼ばれた。吉増生年と石原応召は同年の一九三九年だ。吉本隆明(一九二四─二〇一二)は日本の詩人でプロフェッショナルと呼べる三人として、田村隆一、谷川俊太郎、吉増剛造を挙げ、『詩の力』(二〇〇三)で吉増剛造について「純粋詩人」から「超「象徴主義」」へ至ったと評した。「そのもの」の純粋さから象徴の関係へだろうか。吉本隆明は近代詩から現代詩の流れを叙情詩、純粋詩、象徴詩、暗喩、直喩、シュールレアリスムなどの「表現としての特徴」に類別した。吉増剛造『出発』の表題作を一部引用しよう。

出発

ジーナ・ロロブリジダと結婚する夢は消えた
彼女はインポをきらうだろう
乾いた空
緑の海に
丸太を浮かべて
G・Iブルースをうたうおとこ
ショーペンハウエルの黄色いたんぼ
に一休宗純の孤独の影をみるおとこ
ジッタカジッタカ鳴っている東京のゴミ箱よ
赤と白の玉の中に財布を見る緑の服の男たちよ
ピアノピアノピアノピアノ
雑草のように巨大な人間の音響よ
雑草のように微小な人間の姿よ
おまえは頭蓋の巨大な人間
おまえはカタワ
ヌルヌルした地球
そんな球体の上で
おまえは腐ったタマゴ
銀河系宇宙の便所の中で
おまえは腐敗している
母親は桃色のシーツをたたむ
おまえは腐敗している
頭脳のカタスミで宇宙がチカチカしている
おまえは腐敗している
無生物の悲嘆の回復
宇宙は女ギツネの肛門にある
肛門の中に
ポツンと地球がある
腐敗したおとこよ
さあスコップをもって
ヒップの恋人を
山田寺の仏頭を
日本銀行を
熱海の海を
ディラン・トーマスを
コンクリートでかためるのだ
おまえは腐敗している
おまえはころがる
実存の井戸の底へ
G・Iブルースの里へ
便所の底の赤いじゅうたんへ
ナポリの地下水道におまえの愛が落ちていても
その愛が
タマゴタマゴタマゴ
といっても
おまえはころがる
ガラガラおりる
荒れはてた楽園を
人間のいない
生命の世界を
おまえはころがる
おまえは腐敗している
ここでおまえは結核菌をコップに一杯飲む
おまえはたんぼのくそをたらふく食う
小便をたらふくのむ
走りながら寝るのだ
おまえは
オバケナス
や巨大なオッパイ
からどんどん離れる
離れるのだ
おまえは腐敗している
おまえは離れる

 ところで戦後詩に宿る「深刻な主観性」(吉本隆明)へのカウンターとしての中上健次や村上龍、村上春樹ら戦後生まれの小説家の登場により、戦後の精神は「主観性」に留まる表現に貶められたのではないか。決定的なのは村上春樹(一九四九─)と俵万智(一九六二─)だろう。俵万智の第一歌集『サラダ記念日』(一九八七)発行部数は二八五万部(二〇二二年時点)で、同年の村上春樹『ノルウェイの森』は一〇〇〇万部(二〇〇九年時点)。ポップ文学以後の戦後文学はアナクロな表現とされた。戦後生まれ第一世代の「メタな主観性」は、続々と誕生する戦後生まれの作家たちの「ネタな主観性」(綿矢りさ)「ベタな主観性」(金原ひとみ)「ナタな主観性」(伊藤計劃)などに分岐しながら、阿部和重、上遠野浩平、中原昌也、福永信、川上未映子、滝本竜彦、市川沙央、佐藤友哉、石沢麻依、神慶太、朝吹真理子、小山田浩子、乗代雄介、金子薫、宇佐見りんらに分裂的継承されたと思う。彼らが描く「主観性」は第一世代の「メタな主観性」と模倣しつつズレる「ポストメタ主観性」であろう。小説の「主観性」「メタな主観性」「ポストメタ主観性」は戦後詩の叙情詩、純粋詩、象徴詩(「超」象徴詩)とどれだけ照応し、どこが区別されるのか。とはいえ中上健次のようなメタな「抒情としての証言」こそ「深刻な主観性」の隘路を抜ける方途やもしれない。さて、第一の戦後のテクストに「読み替え」「書き換え」をして、ポスト戦後詩の野崎有以と雨澤佑太郎へむかう。(つづく)

次回予定 2024.2.15up

二つの戦後の詩人たち━━石原吉郎、吉増剛造、野崎有以、雨澤佑太郎をめぐって(第二回)

                              沖鳥灯

3 『長崎まで』(二〇一六)

次々回 2024.3.3up

二つの戦後の詩人たち━━石原吉郎、吉増剛造、野崎有以、雨澤佑太郎をめぐって(第三回)

                          沖鳥灯     

4 『空位のウィークエンド』(二〇二三)

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