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「友達が出来ない」と言ってしまうことの無責任さ

履修登録も終わり、大学の授業も始まって、もう五月半ば。
ひと段落ついた感じ。
5月病にかかってしまったからか、全ての物事に対してやる気が起きないので、とりあえず日記を書きます。

この一ヶ月色々あったが、一番印象に残っているのは小沢健二に急にハマったことだ。大学の授業や、サークルや、働いていることよりも、オザケンが全てに勝る。

さて、僕が4月に一番話した話題は恐らく「大学で友達出来ないんだよね〜」だ。
そろそろこの話題を出すのを辞めたいと思う。
「大学で友達が出来ない、友達が居ない」って話題を話していて、話している自分の無責任さを最近感じるようになってきた。僕にとっての友達とは何なのか。そもそもこれまで、誰が友達で誰が友達では無いかなんて考えたことも無かった。
「友達」って言葉自体も範囲が広い。

僕はこれまで、自分や周りに何かが起こった時に、「あの人ならどうするだろうか」を考えることができる人を友達と定義していたような気がする。
でも、これって友達というより、尊敬してる人や目標になっている人だ。
今想像してみて、「あの人ならどうするか」と考える人が身の回りに何人か居る。これってとってもすごいし有難いことなのだと思う。一人でもいればすごくレアなのではないか。人に恵まれている。

大学で色んな人と知り合いたいというのはあるけど、「友達」とは少し違う気がする。
毎日誰かと一緒に行動するか無理だし、いつメンとかグループとかいう概念を心の底からニクんでる。
大学に通い始めても、そんな概念から逃げ続けている。やりたいことが多すぎる!というのを言い訳にしながら。

時間や、授業、体験などの「何か」を共有する「友達」では無くて、何かを自分自身が吸収できるような「相手」。それを友達というのかは置いておいて。
それはギブアンドテイクのような関係かもしれない。

そのような「相手」と巡り合うために、勉強し続けて自分の言葉を身につけていかなければ!

そういえば、数日前に大学の同級生たちが夜学バー(毎週木曜日17時-24時に働いている)に興味を持ってくれて、折角の機会なので周年イベントの時に一緒に行った。
これまで、驚くことに誰かと一緒に夜学バーに行くということが無かった。高校二年生の3月に夜学バーを初めて訪れてから約2年が経って初めて誰かと一緒に行ったことになる。
周年イベントだし、折角だし、ということで特に深い考えは無かった。
また行ってみてくれたらすごく嬉しい。

兎に角、「友達が出来ない」なんて話題を話すのはもうやめる(もし話してたらバカにしてくださいな)。
自分の身の回りにいる人、全員友達だと思ってる!ヨ!(もしくは尊敬し学びを得る存在)

追記で最近あった嬉しいこと
中学時代からの親友が夜学バーに遊びに来た。しかも一人で。偉い!
やっぱり一人で来てくれるのは嬉しいな。
「店の中に立つ側」になった時に、知り合いが一人で来てくれることは何だか格別の嬉しさがある。
一人で来るという選択肢と、勇気を持ってくれたことに。
もちろん何人かで来てくれてもとっても嬉しい。嬉しさのベクトルが違っていて、どちらも嬉しい。一度、訪ねてきてください。少しの緊張と勇気を持ちながら。
次回は5月16日(木) 17時から24時!
お待ちしてます。

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