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ゴキブリと猫が居ない生活

今年の夏。ゴキブリと猫を見た記憶が全く無い。

去年宮古島に居た時はまあまあ見かけた。熱帯にいるヤツはデカい。そして何だか訳の分からないところで死んでいたりする。
一番参ってしまったのは、友達から貰った陶器のセットをプラスチックの箱(蓋は付いていない)に入れておいたら陶器の隙間でヤツが死んでいた。

インドに行っていた時は(ちょうど去年の9月半ば〜10月半ばくらい)はもっとたくさん見かけた。
インドの列車に乗って、最下等の車両で床で寝ていたりするとテクテクと目の前を歩いていく小さなゴキブリっぽい虫がたくさんいたりする。
最初はビクッとなって、さりげなく場所を移動したりもしくはサンダルで反撃しようとしていた。
けれども何回か見かけるうちに慣れてきてしまって、見かけてもスヤスヤと眠るようになる(顔の目の前に来られる以外は)。

そもそも、去年の11月にインドから東京に戻ってきてから、一回も見ていない気がする。
視界に入っていても記憶に残っていないのだから見ていない。

ヤツが出た時のことは自然と記憶に残っている。

中学2年生の水泳部の合宿で学校に泊まった時、深夜にトイレに行くすがら元気に移動しているのを見かけたり。
シャワー上がりに扇風機で涼んでいたら唐突に自分の足の先らへんにいるのを見たり。
一階にヤツが現れて妹が悲鳴を上げたり。

今は江古田という街に住んでいるのだけれど、自分の部屋にも、引越ししてからヤツは出ていない。

あと、生身の猫も11月にインドから東京に戻って以来、一回も見ていなかった気がする。
過去形になっているのは、ちょうど今日、ランドリーに行く時にでっぷりと太って威厳がある猫が電気屋さんの入り口にどっしりと座っていたのを見たから。

反対にネズミはよく見かける。
江古田駅前のロータリーに居たり、新宿中央公園に居たり、そこら辺の公園で結構見かけたりする(どれも深夜)。

今の自分は猫とゴキブリがいない生活をしている訳で、それって良いとか悪いとかでは無いだろう。
でも、どうなんだろう。

ゴキブリが居ない「生活」。
高度に発展した社会とかでは実装されそうな気がする。

自分が見なくなるのは嬉しいのだけれども、それが社会全般まで及ぶのはどうなのかな?という気がしてくる。
ゴキブリが居なくなった高度な「生活」をする社会は人間まで簡単に消されそう。

猫が居なくなった「生活」はみんながキビキビ働いているのかもしれない。「コスパタイパ!」とか言ってそう。

最近「生活って何?」みたいなことを考えることが多い。もちろん小沢健二さんのライブに行ったから。

ちょうど昨日一緒に話していた人と、あるべき所にあるべきものがあることが「生活」の一部分を担っているのかもしれないみたいな趣旨のことを話していた。

例えば、コンロがある。そのコンロの上にはやかんとか鍋が置かれていなければならない。魚がそのまま直で置かれていたり、そもそもコンロが光源として使われたりするのは
「コンロ」という機能からはどんどん離れていってしまう。
また、コンロの上に鍋ややかんが置かれていて、それがピッカピカだったりしたら?

コンロの上にやかんを乗せる。そのやかんは少し焦げたあとが付いていたり、水滴で濡れたまま拭くのが面倒でそのままコンロの上に乗っけてしまったり。

あるべき所にあるべきものがあること(ああ、人と話したことを文章にするのって難しい、伝わっていない気がする)。

逆に、根本から全く違うものになっていたら?
コンロをつけたら出てくるのが真っ白な火だったり、火が出る部分から小さな水玉が出てきてそれがポツンポツンと天に上っていったり。
別の世界軸の「生活」。

別の世界軸の「生活」について。
例えば、ある世界軸では、スカートの中にみんな色んな魚を飼っていたりするのかもしれない。

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