変数、陥穽、救済


変数、陥穽、救済

0.注

この文は高校生の時に書かれたものに、軽微な表現、内容の修正、加筆を行ったものです。またここでは、『掟の門』(フランツ・カフカ 岩波文庫)を既読であるという前提の上で論を進めます。

1.言い訳

「掟の門」に最初に殴打されたのは小学生と中学生の狭間にいた時だった。
入学に際しての読書感想文の課題文の一つであった本書は、みずからの言語能力を過信していた私を殴打し、私と文章一般の間の平和な関係を打ち砕き、私は本書からの撤退を余儀なくされた。
よって私は、この不毛な6年間の一つの決算の試みとして、この機会において『掟の門』と再度向き合い、和解に近づきたいと思う。

2.概説

フランツ・カフカの著作である掟の門はシンプルなテクストである。
文中では、第三者の視点から「掟の門」の通過を試みる男が、「まだだめだ」とそれを拒む門番と対峙し、通過のためのさまざまな試みによって時を過ごし、結局通過出来ず門前で死に至る様子が描かれる。
しかしながら、文中では、男がどこから来たのか、そして「掟」とはなんなのか、なぜ男は通過を試みるのか、そして通過した先に何があるのか、等多くのことについて一切明示されない。よってある意味では、『掟の門』のテクストは、それ単体、もしくは完全に透明な読者の前ではほとんど何もなさない情報の集積、伽藍堂であるとも指摘できるだろう。
またこれらの具体が明かされない諸要素は、透明たり得ない我々読者に対して、置換可能な変数kとして機能する。
よって読者は、喪失されている『掟の門』の本来の主張、作者の意図を解読するために、この変数kに対して、作者の生から推察される様々な数(ユダヤ教とその戒律、実存主義的思考、精神分析的思考の発露、官僚機構における権力、規律等々)を代入し、無意識的なバイアスによって自らと、自らの属する思考の派閥にとって最も好ましい作者の意図、主張へと到達することになる。

3.陥穽

しかし到達点であったはずの作者の主張、意図へと到達した途端、読者は絶え間ない苦しみへと陥ることになる。
なぜなら、読者がいかに作者の生を観察し、それらしい数字をkへ代入したところで、得られる式は所詮バイアスの手垢のついた一つの解釈であるしかなく、意図、主張の複数の存在可能性を突き付けられるだけだからだ。
そしてこの構造は『掟の門』のテクストの構造と対応する。
読者は文中の男として、我々の持つ『掟の門』の解釈という「門」を通過し、それを確実化したいと願うが、作者の物質的な死と、彼の意図の喪失という門番はこれを拒み、読者は門前で何も語らない門番と永遠の対峙を行うこととなる。
読者はメタ的に『掟の門』を読解していると認知するが、実情としては伽藍堂に引き摺り込まれている。
何がいけなかったのか?どうして引き摺り込まれたのか?
変数kに絶対的に定義が不可能なものを代入。
どれだけ作者の生から推察し、kに対して最も好ましいものを導出したところでそもそもとして作者は死亡しており、作者の生の完全なる追体験は不可能、よって正解へと到達することはない。
ではどのようにして我々は陥穽を回避すべきか?

ここにおいて私が提案する救済策は、この変数kにその事象全てが我々個人にのみ帰すもの、即ち私的なものを代入し、解釈の根拠を作者の生から、自らの生へと移行することである。
これにより、解釈は自己の中で確定され、作者の喪失という門番はもはや我々の「門」の通過に何ら干渉を行わず、文中において門番が告げた、「まだ駄目だ」という言葉に内包される通過の可能性は実現される。
私はようやく、「門」を私有化し、征服する。






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