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パニック障害を通して見えてきたもの

自分を大切に。ありのままの自分でいい。
昨今、そういう言葉が氾濫。
ありのままの自分を自分が探す、
超絶な哲学的環境の令和。

自分を抑える事を人生の処世術としてきた、
昭和48年生まれ、第二次ベビーブームの私には、
なかなかの難題。

ついつい、世間を気にして、50歳の型を探してしまう。
スマホには、「50歳に見えない!!! 若返りの〇〇!!!」的な広告がつきまとう。

今まで、そういうふうに、生きてきたし、
それがどうやら、この日本では、良しとされている。
だって皆んな、同じ環境、同じ時代を、
どうやらこれで間違いないらしい共感意識
を携えて生きてきた。
だって、学校で教わったよ?
はみ出した事をしたら、目立つ事をしたら、
嫉妬の標的になりうる事を。

昔、イタリア人の友人が、私に質問してきた。
死刑執行のある日本、その国民である私に、
『あなたは、死刑をどう思っているのか?』

そんな事、初めて聞かれた。

当時、私は、2年間イタリア・ローマに住んでいた。
日本での死刑執行に対して、
ローマの日本大使館前で抗議活動が行われている、
というニュースを知った。
わたしとしては、遠い国で死刑執行がなされたことに対して、なぜ抗議するのか、不思議でしょうがなかった。

『人間が人間を死刑にして、犯罪の抑止になっているの?』
『人が人を殺す、それを国が認めている。あなたはどう考えているの?』

当時、私は20代半ば。
『えっ、どうなんだろうね…』
他人事な応答しかできなかった。

だって、みんなそうなんだよ。
日本人は…..。
臭いものには、見て見ぬふりをするんだよ。
分からないふりをするんだよ。
だって、面倒くさいじゃん。
じっと時が流れるのを待つのだ。
誰かがきっと、うまいことやってくれる。
そう信じて、生き延びてきた。

ただ、50歳になった今、もうそれは、終わりにしたい。
そうしないと、自分が誰かわからずに死んでしまう。
なんだか、それは違う気がする。

『なるほど、これだったか、わたしのお役目は!』
ポンと手を打って、
死を迎えることはできるだろうか?
あるいは、死を間際に迎えたその頃には、
そういった境地を脱しているだろうか?
ヨガでいうところの、それは、
Samadhi(サマーディ):  悟り、自己の変容
である。

不安な心って、雑草みたいに、ぼんぼん生えてきます。
そして、大地の栄養分をどんどん吸い上げていってしまう。
ただ、雑草も、美しい緑であること。
幹の太い木のそばでは、美しい引き立て役になってくれる。あなたの心配事の雑草の間にも、見ず知らずの種が、あるいは、子供の頃に蒔いていた、忘れてしまっていた種が、何かの拍子に、芽を出しているかもしれない。

それを、育てるのか、あるいは、見て見ぬふりをするのか。

パニック障害の根底って、そんな感じなのではないだろうか?
様々な本を読み漁り、自身に起こってきたことを照らし合わせて今、何となく、見えてきたもの。

美しい大地であるものの、時には、雨でぬかるむ事もある。
自分の庭の様に、目をかけてあげる。気にしてあげる。整えてあげる。耕してあげる。

自分の庭のような心に、目を、かけていますか?気にしていますか?

ずっと雨は続かない。
ずっと晴れる事もない。

誰も手をかけていない庭は、大地は、心は、荒れ果てていく。
そして、雑草に埋め尽くされる。

あなたにしか、その庭を管理、育てる事ができない。

その庭に舞い降りてくる、全ての物を受容できますか?

『あなたは、自分で考えて行動できますか?』

パニック障害が、わたしに問いかけてきた事って、
たぶん、こんな感じのことなのだろう。


最後まで、お読みいただき、
ありがとうございます。

Ciao!☺️
From neo



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