新入社員 射太郎くん
「頼もう!」
月曜の気だるい朝、死んだ魚のような目で業務を開始しようとしていた俺の耳に飛び込んできたのは、このオフィスには到底似つかわしくない謎の掛け声だった。
俺と同じように、今日からまた変わらない一週間の労働が始まることに絶望しながらパソコンとにらめっこしていた周りの連中も、「なんだなんだ?」と、その声の主に注目する。
「今日からお世話になる、満栗返士 射太郎です! よろしくお願いしますね!!?」
まだ何が起きたかも呑み込めない俺たちの目の前で、突如として始まる自己紹介。
今日からお世話になるってことは、社員…なのかあいつは……??
そういえば確か、部長が今日から新人が来ると言っていたことを思い出す。
しかし、あいつ今なんと言った? まんぐりがえし…??
「こ、こら、満栗返士! まずは私から皆に紹介するから、そんな大声で突然自己紹介を始めるんじゃない! 業務中なんだから、少しは考えろ!!」
慌てた様子で部長が止めに入る。
どうやらその男は本当に、"まんぐりがえし"という変わった苗字らしい。
察するに、人事部から新人を預かって俺たちの部署まで連れてきた部長を差し置いて、突如あの新人は「頼もう!」と叫び始めたという状況のようだ。
「なぜですか?! 挨拶は大事だから、会社ではしっかり皆さんに挨拶をするようにとママンから言われているんですよ!」
しかし当の本人は何一つ悪びれる風はなく、先ほどよりもさらにボリュームを増した迫力の声でシャウトする。
大きなのは、声だけではなく体もだった。
体重がゆうに150キロはありそうな巨漢の男で、異様な迫力と存在感がある。
その堂々たる体躯で部長相手に叫ぶ姿を見ていると、こいつが新入社員だと言われてもにわかには信じられない。
だが一方で、頭はいがぐりのような坊主頭をしており、目は不自然なほどにつぶらだった。
それは良い意味でも悪い意味でも世間ズレしていない純粋さを感じさせ、はちきれんばかりに丸々とした胴体とのギャップが、より一層この新人の年齢を不詳なものにさせていた。
「わ、分かったから少し声のトーンを落とすんだ! ほら、みんなびっくりしているぞ。何事にも順番というものがあるんだ満栗返士」
いつもは役職者の権限を振りかざし、部下からの言葉など歯牙にもかけない部長がたじろぐ様子は新鮮だった。
さすがの部長も、150キロ超の塊が全身を震わせながら叫ぶ姿には本能的に身の危険を感じるらしい。
それに何より、「挨拶は大事」だというその新人のロジックは、あまりにも子供じみていて単純だったが、何も間違いのない真理だった。
人の言葉を逆手に取ってねちねちといびることが得意な部長にとって、ただただ正論を振りかざされるというのは久方ぶりの出来事に違いない。
「えー、では改めて紹介する。今日から我が部署に配属されることになった満栗返士 射太郎く……」
「満栗返士 射太郎です!! 趣味は、シャープ・ペンシルの芯を集めることとイリュージョンです!!!」
基本的に、何かを我慢するということが極端に苦手なのだろうか。
先ほど叱責されたばかりだというのに、待ちきれないとばかりに部長の発言に被せぎみに自分の趣味を発表し出す新人。
シャーペンの芯を集めるのはともかく、イリュージョン……??
それって趣味として成立するのか……??
俺は、150キロの肉の塊が、回転ノコギリが迫る箱の中から華麗に脱出する姿を想像しようとしたが、何度考えても哀れなミンチになるイメージしか思い描けなかった。
「ママンからこの会社で働くように言われたので今日から来ました!! 何でも器用にこなせますので、ご期待ください!!」
体操選手のフィニッシュのポーズで両手をピシッと突き上げ、とっておきの決め顔と共に、新人は自己紹介をやり遂げた。
皆、どのようなリアクションを取るべきなのかが分からず曖昧な表情で周囲の反応を伺っていたが、そのうち何人かからパラパラとまばらな拍手が起こり、一応これでこの新人はうちの部署に迎え入れられた形となった。
「満栗返士にとっては、はじめての会社生活だ。仕事のことだけではなく、色々と教えてやってほしい。みんなよろしくな!」
失われた威厳を取り戻すかのように、テンプレートの言葉で部長がその場を締めくくった。
去年俺が提案した、新人教育フローの導入の件など、きっと頭の片隅にも残っていないことだろう。
「しかし、新しい仲間が増えるとなると、やはりあれだな。歓迎会をやらなきゃな」
相好を崩して部長が言う。
出たよ……と、周りの連中から小さなため息が漏れた。
昭和の考えからいつまで経っても抜け出せないのだろう。
何かにかこつけて、部長はすぐに飲み会を開きたがる。
もちろん、純粋に新人を歓迎する気持ちがあるなら否定しない。
だが部長が飲み会を開く目的は、お決まりの武勇伝の披露と、女子社員とのコミュニケーションにしかないことは明らかだった。
それに、今時の若者が歓迎会を開かれて嬉しいはずがないだろう。
彼らとは世代が異なる俺でさえ、会社の人間との飲み会なんかより、自分の時間を大事にしたいという気持ちは痛いほどよくわかった。
だというのに、その新人のリアクションは、俺にとっては思いがけないものだった。
「え! 歓迎会を開催してくださるのですか!!」
ぱーっと顔を輝かせ、150キロの巨体でぴょんぴょんと跳び跳ねながら、新人は全身を使って「喜」の感情を表した。
部長からしても、その反応は予想よりだいぶ良いものだったのだろう。
珍しく上機嫌で、「当たり前だろ! もうお前も我々と同じ部署の一員なんだ!」と、バンバンと新人の肩を叩いている。
形だけでも喜んだふりをするか、あるいはハッキリと飲み会は行きたくないと断るか。
後者はなかなか勇気ある選択肢だが、この変な新人ならあり得るかもしれない……いずれにせよ、そのどちらかの反応だろうと勝手に予測していた俺は、なんだか少しだけ恥ずかしくなった。
同時に、久しく目にしていなかった他人のストレートな感情表現は、俺をむず痒いような不思議な気持ちにさせた。
「よし、じゃあいつやるかな。来週の金曜辺りなんてどうだ?」
「今日です!!!」
日程を決めようとする部長の声をさえぎり、間髪いれずにピシャリと新人が言った。
「は……??」
「歓迎会は、今日早速開いてください!!」
「ま、待つんだ満栗返士! 楽しみにしてるのは分かるが、いくらなんでもそれは厳しいだろう。みんなの予定だって聞いてないし、お店の予約も……」
「関係ありません!!!!!!!!!!!」
いや、おもくそ関係あるよ!!?
というみんなの声を代弁するかのような、あっけに取られた部長の表情が滑稽だった。
過呼吸のように口をぱくぱくさせ、目を泳がせながら、それでも何とか言葉を絞り出す。
「ま、満栗返士……! 貴様いい加減にするんだ! 初日からそんなワガママは――」
「いいじゃないですか、やりましょうよ今日」
え――?
その言葉が自分の口から出たことを認識するまで、少しばかり時間がかかった。
あまりにもらしくない発言に、部長も、周りの連中も、そして何より俺自身が、戸惑いを隠せなかった。
だが、俺の意志に反して滑り出た言葉はもう止まらない。
「別に全員じゃなくてもいいんだし、今日予定が空いているメンバーだけでささやかな歓迎会を開けばいいでしょう。店はまあ……週末じゃないんだし、こだわらなければどこにでも入れるでしょう」
いつも何かと理由をつけて部内の飲み会をキャンセルし続けている俺が、急にこんなことを言い出したのだ。
皆が狐につままれたような顔で見ているのも無理はない。
「まあそれはそうだが……とは言え、今日にこだわる必要はないだろう。こういうのはちゃんと部署全体でやるからこそ意味があるのであって……」
「いえ、今日です!!!!!」
またしても、新人のシャウトが炸裂する。
ね? と俺は部長に目配せした。
「いいじゃないですか。今時珍しいですよ、こんなに歓迎会を喜ぶ新人なんて。彼の今後の士気にも関わるでしょうし、まあ、軽く。ね」
「うーん、、、なんだか満栗返士のワガママに押し切られたようで釈然としないが、ここは折れてやるとするか! よし、じゃあ今晩都合がつく者は参加してくれ!」
なんだかんだ言っても、飲み会が出来さえすれば満足するのが部長だ。
最近の若いやつはまるで我慢を知らん、とブツブツ言いながらも、結局は笑顔でフロアを出て行った。
俺はパソコンに向き直り、ふうと軽く息を吐きながら、今の一連の行動を軽く後悔した。
「何やってんだかな俺は……」
その時、デスクトップに、新着メールの受信を示すアイコンが点滅した。
ようやく佳境を迎えつつある開発中のソフトウェアの設計を根本から見直さざるを得ないような、エライさんからの仕様変更の指示だった。
しかも、何度も何度も説明を繰り返し、絶対に仕様がひっくり返ることがないようにと合意を取り付けた箇所に対してだ。
経験上、この後の展開は分かっている。
いくら俺が反論し、これまでの経緯を丁寧に説明したところで、上の決定は覆らない。
このタイミングで仕様変更が発生する理由が、とどのつまり「話をよく聞いていなかった」にも関わらず、だ。
深々とため息をつき、俺は無言でメーラーを閉じた。
「ま、こんな日くらいは飲みに行くのも悪くないかもな……」
ヤケ酒の習慣はないが、アルコールでも摂取しなければ気持ちの持って行き先を見つけられそうになかった。
さっきの俺自身の不可解な言動は、もしかしたらこの事態を予測してのことだったのかもしれない。
視界の端では、件の新人が「ほおおおおおおぉぉぉ」と雄叫びをあげながら、全身の肉を激しく揺らすツイストダンスでフロアの鉄筋を震わせていた。
ビルを破壊せんばかりの勢いで、歓迎会の開催が今晩に決まったことを喜んでいるようだった。
仕様変更のメールで完全に萎えた俺は、定時までの残りの業務時間をWebサーフィンだけで乗り切った。
新人にどんな作業が割り当てられるのか横目で見ていたが、どういう経緯か、午後からはずっとオフィスの雑巾掛けをしていたようだった。
昭和じゃあるまいし、新人だからっていきなり掃除なんてさせたら辞めてしまうんじゃないか?と思わず口を挟みかけたが、そんな俺の思いに反し、新人は大層楽しそうに「どーーーーん!!」と効果音を発しながら、フロアの端から端までを縦横無尽に駆け巡っていた。
150キロの弾丸が、狭いオフィスの中を凄まじい速度で通過するのだ。
備品のデスクが数台、廃棄処分となったのは言うまでもない。
業務終了のチャイムを合図に、部長と新人を含めた数名で連れ立って、近所の適当な居酒屋になだれ込む。
自然と、新人と部長を囲むような形で各自が席についた。
しばらくすると人数分の飲み物と料理が運ばれてきて、部長の錆び付いた「歓迎の言葉」と共に乾杯した。
普通の飲み会であればここから部長の武勇伝や他愛もない愚痴が始まるところだが、今日の主役は何と言っても新人だ。
皆、業務時間には何となく気になりながらも話しかけるのは躊躇っていたのか、はたまた酒も入って舌が滑らかになったのか、とにかくここぞとばかりに新人をいじり出す。
「しかし、満栗返士って変わった苗字だよなー。呼びにくいってよく言われないか?」
「僕のことは射太郎君とお呼びください! 僕は自分の名前が好きなんです! ママンがつけてくれた名前ですので!!」
「お前の趣味、イリュージョンってさすがにあれはボケたんだよな? 聞いたことないぞ、趣味がイリュージョンとか言うやつ」
「失敬な! 僕は8段なんですよ!!?」
「じゃあ、休みの日はいつもイリュージョンしてるのか?」
「いえ、野山でのフィールドワークです! そうだ! 昆虫の話をしましょう! 僕は昆虫が好きなのです!!」
新人は下戸なのか、マンゴージュースを飲んでいた。
ずるずると音を立ててストローを吸うのでハッキリ言って汚らしかったが、一口すするたびに「ほおおおうううう……」と感嘆して恍惚の表情を浮かべるものだから、思わず俺も頼みそうになったくらいだ。
誰かが新人をいじる質問をして、それに新人が言葉を返す。
そのやり取りのほとんどは会話のキャッチボールが成立しているとは言い難かったし、正直なところ何を言っているのかほとんど理解も共感もできなかったが、聞いていて嫌な気分はしなかった。
そうして宴もたけなわとなった頃、新人が言った。
「ところで、歓迎お祝い金はいつ頂けるんでしょうか!!?」
ん??
聞き慣れない言葉に、部長を始め俺たちは皆、頭にクエスチョンマークを浮かべる。
「満栗返士……? な、なんだその、歓迎お祝い金というのは……?」
部長の問いかけに対し、新人は目をかっと見開いてのけぞり、「何を言っているんですかあなたは?!」と叫んだ。
言葉の響きから、どうやらご祝儀のようなものを求められていることは分かる。
だが、新入社員に対し、先輩や上司がご祝儀を渡すようなシステムを、俺は……いや、俺たちは、誰も知らない。
だから、「何を言っているのか?」と問いかけたいのは、むしろ俺たちの方だった。
「部長、、、もしかすると、満栗返士は海外に住んでたんじゃないですか?? 海外のどこかの国では、そういう文化があるのかも……」
同僚の一人が発したその言葉に、皆が「おおー」と声を上げる。
なるほど、確かに海外――行ったことはないのでよく分からないが、たとえばマレーシア辺りにならありそうな文化なのかもしれない。
それに、この新人はなんだか日本人離れしたところがあるので、海外説は実に合点がいった。
「うむ……そうかもしれないな。よし、本人に直接聞いてみよう! なあ満栗返士、君は以前まで海外に住んでいたのか??」
「いえ? 僕は生まれた頃からずっと、ママンと一緒に日本に住んでいます!!!」
これしかない、と半ば確信を持っての問いかけだったが、どうやら海外説は空振りだったらしい。
「むう……そうなのか。ずっと日本か。となると……」
となると。
歓迎お祝い金って何だ??
「なあ、満栗返士。お前はもしかしたら、結婚式か何かと勘違いしているのかもしれん。確かに結婚式の場合は、ご祝儀というのがある。だが今日のは歓迎会だ。歓迎会では、お祝い金というのは通常出ないんだ」
部長が珍しく、新人の誤解を解くために丁寧かつ分かりやすい説明をする。
しかし残念ながら、新人にはその言葉は一切理解されていないようだった。
「は……??」
「つまり日本ではだな、慣例として、新人歓迎会でご祝儀というものは出ないようになっていて……」
「関係ありません!!!!!!!!!!!」
いや、おもくそ関係あるよ!!?というその場にいた全員の突っ込みは、ふしゅーと頭から蒸気を出して猛り狂っている新人には、残念ながらもう届いてはいなかった。
「いいですか!? 僕のママンが、会社で歓迎会を開いてもらう時は、歓迎お祝い金を貰ってくるように言ったのです!!! 皆さんは、僕のママンがウソをついているとでも言うんですか!!!?」
母親の名前を出されると、俺たちも弱い。
部長が困り果てた顔で、「お前が何とかしろ」と俺の肩を小突いた。
何で俺が……!?という気持ちではあったが、今日この場を強行したのは俺だ。
その引け目もあって、俺は頭をフル回転させて口を開いた。
「な、なあ。満栗返士」
「はい!」
「えーと、その、なんだ。ほら、あれだ。お前の好きな昆虫って、その、ヘラクレスオオクワガタみたいな、そういう、、、」
「いえ、僕が好きなのはミンミンゼミだけです!!」
「そ、そうか。変わってるなお前……」
いきなり出鼻をくじかれてしまった感はあるが、これで間は掴めた。
本題に入ろう。
「それで、歓迎お祝い金のことなんだがな」
「はい!!」
「お祝い金はちゃんと渡そう。何しろ、お祝いだからな」
「はい!! ママンも言っていました!!」
何を言っているんだお前は!?という上司と同僚たちの視線が痛い。
しかし、俺の作戦はここからだった。
「ただな、今日ここにいるのはお前も知っての通り、一部のメンバーだけだ。だから、後日また別の機会に――」
「は!?」
「つまりだな、部署のメンバー全員から歓迎お祝い金が集められるようにまた改めt」
「お祝い金は今すぐですよ!!! このバカ!!!!!!!!!!」
本日最大のボリュームで絶叫し、同時に「どーん!!!」という掛け声と共に、俺に容赦ない全力の体当たりをぶちかます新人。
居酒屋の店内を吹っ飛ばされながら、全く不意になぜか、「今もしかしたら俺は、楽しいんじゃないか?」という場違いな疑問が俺の脳裏をよぎった。
そしてその直後、床にしたたかに頭を打った俺は、それきり意識を失った。
翌日。
どうやって家に帰ったのかは全く記憶にないが、二日酔いと打撲による強烈な頭痛で目を覚ました俺は、ボロボロの体を引きずって何とか定刻通りに出社した。
別に休んでも構わなかったのだが、昨日の意識を失ったあとのことが気になったからだ。
しかし、始業開始のチャイムがなっても、新人――満栗返士の席は空っぽのままだった。
「まあ、無理もないか……」
上司や先輩たちにお祝い金をせびった挙句、あれだけ暴れ回ったのだ。
もうあのまま会社を辞めるつもりでもない限り、できる行動ではないだろう。
いや、或いは。
そもそも本当に存在したのだろうか、満栗返士なんてやつは――。
仕事のストレスと、それから逃げるために飲んだ酒が見せた、ワケの分からない夢か幻だったのかもしれない。
そうだ。最初からあいつの全てはワケが分からなかった。
普通、いないだろう。まんぐりがえしなんて苗字で、趣味がイリュージョンで、ミンミンゼミが好きな新人社員なんて……。
ぼんやりとそんなことを考えながら、現実に目を向けるべくパソコンを立ち上げた、その時だった。
「頼もう!」
昨日と少しも変わらないトーンで、その場違いな挨拶の声がオフィスに響いた。
そいつは俺の姿を見つけるなり、「昨日は楽しかったですねええええ」と全身を左右にぶるぶると震わせる。
お祝い金のことなんてもう、完全に忘れてしまっているようだった。
「お前……遅刻だぞ」
なんとなくまだ頭がぼんやりしていて、夢見心地だった俺が呟いたのは、何とも陳腐でつまらない言葉だった。
「ですが、起きて準備をして来たら、この時間だったのです!!!!」
何の悪気もなく真っ直ぐに叫ぶ満栗返士を見て、俺は思う。
この先こいつが社会で生きていくことは、きっと不可能だろう。
けれど、それでもこいつには、生きている意味があるんじゃないか――。そんな風に。
だから俺も、つまらない常識を捨てて言う。
「おい満栗返士、俺朝メシ食べてないんだよ。今から食いに行こうぜ」
「ええ?! いいんですかあなた!? 今は勤務時間中のはずでは??!」
「平気で遅刻してきたやつに言われたくねーよ。いいから行くのか、行かないのか」
「いいですね! 行きましょう!! 僕はちょうどピラミッドの話がしたかったのです!!」
「ミンミンゼミはもういいのか?」
「なんですそれ? 気持ち悪い」
ぶん殴りそうになるのをこらえながら、満栗返士と連れ立ってオフィスを出ようとして、ふと立ち止まる。
「あー、満栗返士。ちょっとだけ待ってろ」
そう言って俺は、メーラーを起動して、昨日来たエライさんからのメールを呼び出した。
返信ボタンを押し、カタカタと文面をタイプしてから、ためらうことなくそれを送信する。
「よし、行こうぜ」
俺たちの職場は、そんなに自由な社風じゃない。勤務時間中に外出して食事なんて前代未聞だし、周りの社員の視線が痛い。
けれど俺がこの先生きていくうえで、この些細な出来事は、きっと不可欠で、そして避けて通ることのできない儀式なのだと思った。
「何食いたいんだお前?」
「マーボー豆腐丼です!!」
後日、上層部からの重大な仕様変更の指示メールに対し、たった一言、「関係ありません!!!!!!!!」と返信した男のことが、社内でちょっとした話題になった。
だが俺は今日も変わらず働いているし、そして過去に例を見ないことに、上層部が決定したその仕様変更は前言撤回で見直された。
俺が送ったメールがその見直しを引き出したのだと自惚れる気はないし、きっとあんな行動に大きな意味なんてないのだろう。
それでも俺は、自分の人生というやつの輪郭が、朧気ながらに分かりかけてきたような、そんな気がしていた。
なお、満栗返士は入社から1週間後、解雇処分となった。
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