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きみはSunny day、ぼくのHoliday


遅い時間まで寝てしまった日曜日は、その怠惰の罪滅ぼしをするために、あてもなく近所を散歩することにしている。

お気に入りの深緑のコーチジャケットのポケットに両手を突っ込み、耳にはiPhone標準の有線イヤホンと呼吸のしやすいマスクをして、口パクで歌いながら街を歩く。

このスタイルで見慣れた街を練り歩くのは、なんだかミュージックビデオの主人公にでもなれた気がして、結構好きだった。周りに人さえいなければ、途中くるっと一回転したりステップを踏みながら歩いてみたりしたいんだけど、日曜日の昼間の人通りの中、そんな奇行ができるはずもなく。


途中、以前から気になっていたちいさなケーキ屋さんで、この罪滅ぼし散歩の消費カロリーを無にする買い物をした。

本末転倒だけれど、こういう矛盾も愛するのが人生。

会計時、PayPayの「スクラッチチャーンス!」という謎キャンペーンの音声のデカさにギョッとしていると、若い女性の店員さんから「お持ち帰りのお時間はどれくらいですか」と尋ねられた。

そのお店は家から徒歩10分くらいの距離だったけれど、咄嗟に「30分くらいです」と答えた。

特にあてもないが、少しだけ遠回りして帰ってみようと思った。


お店を出て、歩きながらイヤホンを耳に突っ込み直す。さっきまで聴いていた曲のアウトロが流れ終わり、数秒の無音の時間。

そして、いざ次の曲へ移ると、なんだか懐かしいイントロが耳に届いた。

瞬間、思わず、あ、と声が漏れそうになった。

松任谷由実さんの「Sunny day Holiday」。

およそ4年前、まだ22歳だった私が吐きそうになるくらい好きだった人が、自分のことなんてどうでもよくなるくらい好きになったあの人が、今でも世界で一番幸せでいてほしいあの人が、教えてくれた曲だった。


彼との話は以前、別のnoteに書いた。

私と彼が出会ったこと、心が通い合った瞬間が確かにあったこと、彼が優しい人だったこと。ただの我が儘だけれど、そういうことを、この世の誰かに知ってほしかった。

そして、自分の中でだんだんと薄れていく彼の輪郭を忘れないために、ひと晩かけて泣きながら書き上げたnoteだった。

公開当初は海にボトルメールを投げたくらいの気分だったけれど、ありがたいことにいろんなルートからあのnoteが広まり、沢山の人から素敵な感想をいただくことができた。SNS社会にこれほど感謝したことはなかったかもしれない。


そんな彼が、この「Sunny day Holiday」を教えてくれた時のことを思い出す。

別に彼は「君を思ってこの歌を聴いた」なんてロマンチックなことは一言も言っていない。ただ、何かの話の流れで「ホリデー」という単語が出てきて「ユーミンのこの曲を思い出した」とLINEで共有してくれただけ。


この曲の印象が変わったのは、彼ともう二度と会えなくなってからのことだった。

彼との最後の電話を終えてからしばらく、私は「この状況を受け入れなきゃ」と、自分の気持ちを抑圧して生きていた。「縋りつけばまだ何とかなるかも」なんて段階は、もうとっくに越えていた。

途切れた関係を何度もツギハギだらけで復活させて、当たり前だけど、それではやっぱり上手くいかなくて。

彼は放っておいたらこの世から静かに消えてしまいそうな雰囲気さえあって、それが怖かった私は、時に彼のことを言葉で縛ったりもした。それがまた却って彼の負担になり、彼は逃げ、私は追い、ずっとそれの繰り返し。そんな状況での、あの最後の電話だったから。

あんなにも真っ直ぐに自分の気持ちを正直に伝えてくれた彼に対して、「もう会えない」と“言ってくれた”彼に対して、これ以上、自分の気持ちを押し通すことなんて、出来るはずがなかった。


そして、最後の電話から少し経った、ある晴れた日曜日。彼とのLINEを見返しながら一人ベッドでぐずぐずしているときに、あの日、彼が共有してくれたこの曲を見つけたのだった。

そしてすぐさま音楽アプリを立ち上げ、聴いて、泣いて。

何度も聴いて、何度も泣いた。

その涙は決して「悲しい」「苦しい」というマイナスの気持ちだけではなかった。でも、その時も今も、あの涙の理由を表す適切な言葉が浮かばない。

音楽に自分の恋愛や人生を重ね合わせるなんて、なんかちょっと“ぶってる”というか、“イタい”というか、そんな気持ちも正直、ないことはない。

でも、私はどうしても、これが彼と私の曲だと思わずにはいられなかった。

彼がこの曲を聴く時、少しでも私の顔が浮かぶなら、それだけで「出会えた意味があった」とさえ思える。この曲には、そんな凄まじい力がこもっていると思う。


『Make me lonely ひとりにして
きみがどんなに 大事だったかかみしめている
Make me crazy 苦しませて
ぼくがどんなに ばかだったかわかるために

きみと出会った冬の日が
すごした夏の日が
今でもぼくを照らしている

きみはSunny day ぼくのHoliday

愛していさえすれば
きみはいつでも そばにいると思っていた

あのときのけんかのわけも
あの涙の意味も
わかろうとさえしなかった

ぼくは Moony boy 夢を見てる

長いあいだ探していた 幸せ降る虹の街は
激しい雨が過ぎたあとの つかのまにあると知った

Make me lonely もう少しだけ
きみもどんなに淋しかったか考えてる

だってぼくの人生の
サイドシートには
きみの笑顔を乗せたいから

きみは Sunny day ぼくの Holiday
きみは Sunny day ぼくの Holiday』




さっきも書いたけれど、彼は別に私を思ってこの曲を聴いた、なんて一言も言っていない。

でもきっと、彼の人生の中で、この曲を聴いて私の顔が思い浮かぶこともあるんじゃないだろうか、と思う。


これは完全なる私の思い込み。

だけど、限りなく確信に近い思い込み。


彼は私と別れ話をするたびに「自分が幸せになることに恐怖心というか、拒絶心がある」なんてことを言っていた。

私には、その言葉の意味は理解できても、どうして彼がその思考になるのかは、最後の最後まで理解できなかった。時が経ち少し成長した今でさえ、想像はできても、やっぱり理解はできないかもな、と思う。


だから、どうやっても結局、今も一緒にいることはできなかったのだろう。

彼のせいではないし、もちろん私のせいでもない。

どちらが正しいとか間違っているとか、そういう話ではない。


恋愛のゴールは一体どこなんだろう。

結婚なのか。
死ぬまで寄り添い生きていくことなのか。

その理論でいくと、私と彼はゴールに辿り着くことは出来なかった。だけど、ゴールに辿り着かなかった恋愛がすべて悲しいものなのか、無駄なものなのかというと、決してそうではないと思う。

私は前に書いたnoteの最後を

「あなたを知らない人生なら、私はいらなかった」

という言葉で締め括ったが、別れて何年も経った今でも、変わらずにそう思う。

彼を好きになってたくさん泣いたり悩んだりしたことは、ひとつも無駄じゃなかった。でも、そう思えるのは、あれから自分が彼のいない人生を歩んできて、ある程度納得のいく生活を手に入れたからこそだとも思う。

どんな選択をしたとしても、もしかすると、その選択自体に正解不正解はないのかもしれない。それを正解にしていけるのは、自分の「これから」の生き方でしかないのかも。


私には、彼と別れてからも、かつて彼がくれた「〇〇は大丈夫。この先もずっと大丈夫」という根拠のない言葉でやり過ごせた夜が確かにあった。

そして、これから先の人生も、その言葉を思い出すだけで救われることが何度もあると思う。


だから、一生感謝してるよ。

結果的に同じ結末になるとしても、何度でも出会って、あなたのことも、あなたの大事にしている世界のことも、また好きになりたいです。

これから先、もう人生が交わることがなくても、ずっと幸せでいてね。


私と過ごした日々の記憶が、あなたのこれからの人生を照らせる瞬間がありますように。


きみはSunny day、ぼくのHoliday。




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