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何が終わるのを待っているの、人生

サミュエル・ベケットの書いたゴドーとはなんであるか、ちょっと掴めてきてしまった気がする38歳春。ミッドライフクライシスど真ん中なのかも知んない。自分を見つめてしばし反抗的になったり俯瞰的になったりする人生の成長期だ、多分。
さて、あなたは何を待っているのですか。子供が帰ってくる時間を、それによって終わる一人の時間を、おやつの時間を、夕方のチャイムを、お風呂の沸く音、夕飯からのぼる湯気、お布団に潜り込んで本を読む時間を、そしてまた来る明日の朝を、子供を送り出す時間を。何を待っているのですか。

役者やモデルは待ち時間も仕事のうちだと言うわれるけれど、いやでもそれって多くの人にとって人生そのものそうなんじゃないかと思う。「突然どこからか大金が手に入る」「突然ものすごく気の合う人間が向こうから声をかけてきて私たちは意気投合する」みたいな大きな期待をして暮らしていなかったとしても、何かを待ちながら生きているのです、きっと、何か自分にとって都合の良いことを。
人生の目標とは難しい。その目標とはどこに向かう目標ですか、自分の入る骨壺にレールを敷いていますか。いや、レールなんて敷けるものですか、何があるかわからないのが人生だもの、目標があっても外的要因で何か変わるかもしれない。何かを待とうなんて気持ちがなくても、何かがやってくる準備をしてしまうものですわね。
とある情報筋から得た話なんですが、どうやら人は100%死ぬんだそうです。何を待っているのか、多分死を待っているのが私なんですけど、死を待ちながら日常を生きていくのです。どんな形であれ、生きている日々は死への助走、私は死を待ちながら暮らしている。わたしのお葬式で喪主となった我が子とかが「母はこんな人でした」とうまいこと一言で私の人生をまとめてくれるでしょう、そのまとめがなるたけ自分の本意になるように日々を送って死を待つのです。
(本文作成ここまで17分)

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このように子供たちが学校行っている間、朝用事のない日はnoteを書こうの日々です。決して三日坊主にならないところが私の良さです。過去に12年くらいやってたブログは12年×365日のうち書かなかった日は6日くらいです。海外に行っても書いてました、完全にどうかしてますね、ええ。
でも続けると言うのはさして大変なことではないと思うのです、毎日ご飯を食べるように、毎日何かをやることは問題ない。でも同じ内容のお食事ばかりだったら飽きちゃうように、行動のルーティンはあっても内容は新鮮なものでないとなんもおもしろくないものです。
そんでなぜ私はnoteをなるべく書いていこうかと思ったかと言いますと、未就学児を育て続けているとどうも長文を書く時間が減ってしまい、話すように打てたはずのタイピングも遅くなるしミスが多くなるし、取り戻せ「文章力とタイピング力」ということです。高い山に登るためには準備しなくちゃならない。私のこれからにはいくつかの装備が必要なんだけど、準備ができたらあとはスタート地点に立って登るだけだ。チャレンジ精神を持って。まずは麓に降り立たねば、その山は絶対に登れない。動け指先


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