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訃報·曙太郎さん

私よりも若いのに…

私はまだ髷も結えていなかった少年·曙を見たことがあります。
当時、東関部屋が大阪での春場所宿舎にしていたお寺さんが私の実家近くだったのです。
場所中、若い力士たちは午前中に電車に乗って府立体育館まで行きました。
関取になるとハイヤーで場所入りです。
曙はすぐに出世して関取になってしまったので、近所を歩く姿を見ることはなくなりました。

実家の母は喫茶店を経営しておりました。
パートのおばちゃんやバイトの女の子はいましたが、私も結婚して実家を出るまでは店に出ていました。大学を卒業して就職してからも、朝6時半から出勤するまでの1時間ほどと、日曜日の午前中は手伝っていました。出前もしていたのでモーニングの時間がいちばん忙しかったのです。

ある時、日曜日の早朝に、近所の工務店からモーニングの出前があって
ホットコーヒーとトースト、ジャムをガチャガチャ持って
「まいどー、バンビーでーす!」と入って行ったら、ドアを開けたところの応接セットに高見山がちんまり座っていてたまげました。

高見山が引退して東関親方になって、もうすぐ独立して部屋を持つという時期で、大阪場所の宿舎を作る打ち合わせに来ていたらしく。

店に帰って、母やバイトの子や常連客のおっちゃんたちに
「高見山がおったー!」とコーフンして伝えました。

高見山(東関親方)は本当にいい人で、毎年春場所で大阪に来るたびに、私の実家の店に来てモーニングを食べて手形の入ったサイン入り色紙を置いていかれました。うちだけではなく、近隣の喫茶店や飲食店をくまなく回って食事をして色紙を配っておられたようです。

曙さんが相撲協会に残っておられたらなぁ…

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