批判するべきは個人ではなく「因習」であるという日記。

漫画家の芦原先生が急逝された。
この件に関しての見解は、正式に何らかの形で発信できるほど私の中でまだ纏まってはいなくて、ややもすれば個人批判に陥ってしまいそうな衝動を、必死の思いで耐えている。
それをやってしまえば、意味はない。
批判するべきは業界の構造や慣習や文化であって、その責を個人に還元してはならない。
そう自分にどれだけ言い聞かせたとて「犯人探し」をしてしまうのが、一般的小市民である私なのだけれど。

しかし、そんな風に視野が狭くなっている今の私の状態で、個人ではなく業界の体質を正しく批判し改善策を提示できる気もしなかった。
「契約が為されていたのなら契約不履行は良くない」という当たり前な意見を掲げることはできても、途中経過はどうあれ、最終的には原作者の意向を守ってはいるのだ、この作品ですら。
最初から守っておけよという「過程」の問題は孕めど、「結果」だけ抽出すれば、原作者の意向を守り、最終的には原作者が書いた脚本に差し替えている。
少なくとも、原作者が良しとしなかった脚本のまま映像化されて世には出ていない。

もちろん、最初から原作に忠実な、あるいはしっかりと原作の意向を汲んだプロットが目指されていれば、同じ改変でももっと時間の余裕を持たせた形で、原作者と原作ファンにとってより良い形での映像化ができて、それが脚本家にとって本意か不本意な形かは出来上がるまでは分からないけれど、とにかくもっと良い形に転がる可能性はあったのだ。
今回の件は、さまざまな要因が重なり合って考えうる限り最悪のケースに到達してしまったというほかない。

SNS上でも何人かが指摘していた通り、脚本家も事前に原作者の意向と課された厳しい条件をどれだけ聞かされていたかという点が明確化されていない。
かつ脚本家はあくまで下請けであるということも忘れてはならない。
私達門外漢からすると、脚本家というのは何やら凄い職業で、権威があって、その作品のストーリーも台詞も何もかもを握っているのだ! と思わなくもないが、実際一口に「脚本家」と言っても、自由にできる範囲は作品によると思う。
脚本家の大号令によって原作の改変が為される現場もあれば、脚本家は単なる御用聞きにしか過ぎず、プロデューサーやその他スポンサーの意向をただただ反映する作業者になることを強いられている現場もあるだろう。
それぞれの力関係によって、ケースバイケースだと予想するほかない。

実際、自分がドラマの脚本家だったとして、プロデューサーに「今のターゲットユーザーに合わせるために、ここの展開はこう改変してくれ」だとか「商業的にイケメン俳優をたくさん使いたいからオリジナルキャスト出して」とか言われたら、逆らえる自信はない。

では間に入って調整を行っていたプロデューサーが「悪」なのかと言われると、それもケースバイケースだと思う。
作品において責任を取るのはプロデューサーだと思う。あるべき論で言えば、その作品の商業的責任も、道義的責任も、全ての成功と失敗はプロデューサーにあると思っている。
プロデューサーの一番大きな仕事は責任を取ることで、責任を取るからプロデューサーと名乗る資格を持てるのだと個人的に思っているから。
とはいえ、これはあくまであるべき論であって、雇われ社長や雇われ店長という言葉もある通り、雇われプロデューサーとでも言うべき、悲しきプロデューサーもいる。
中間管理職的立ち回りを強いられるプロデューサーだ。
そうなると、クライアントやあるいは自分の上司である偉い人の意向に沿うこともかなり求められてくる。
プロデューサーすら不本意な決断、選択を強いられることもままあるだろう。

今回の現場がどうだったかは知らないが、プロデューサーも脚本家も全員がサラリーマン、あるいは下請けの立場であって、かつこれが仕事であるということは忘れてはならない。
仕事において、全員の思いを100%汲むというのは非常に難しい。
全員が100%、「過程」も含めて納得しているものづくりの現場なんて、この世に存在するのだろうか。
成果物という「結果」を見せられて、納得せざるを得ない、というパターンはあると思うけれど。

もちろん、その「不本意」な感情を個人攻撃にも取られかねない内容で不特定多数が見れる場に晒してしまったことは、短慮であると言う他ないのだけど、ただ、誰しも短慮を起こしてしまうはあるし、誰しも自分の行いを理解してほしいという欲求もある。

今はもう削除されているのであるから、ここにもあまり言及はしたくないのだが、ごく理性的な形で、小学館とも確認した上で原作者が声明を出したのも、誤解を防ぎたいとか、ファンの皆様、楽しくドラマを楽しんでくださった方に正しく事態をお伝えしたいという欲求で、理解ってほしいが原動力である。

双方、正しく理解されたかった、誤解されたままでいたくはなかったことには代わりはない。
(もちろん、その伝え方には巧拙があるし、伝えたくても黙っておくべき事もあるが)

その中で、今回の件が非常に燃え上がったのは、過去が掘り下げられたからであって、その過去の現場もその度に色々なことがあったと思うので、何を糾弾することもできないししたくないのだけれど──とにかく私が言いたいことは、この業界全体の「不誠実さ」に対して、いよいよ我慢の限界がきているのだ、作り手も受け手も。

今回の件に関して、同じ原作者という立場の人たちから「同じような経験をして悔しかった」という感想が相次いだ。
そしてそれを読んだ創作を愛する者たちは、ますます義憤を募らせていった。
これは単純にその人たちが口をつぐめば良かった、火に油を注いだという話ではないし、創作を愛する者たちが騒ぎを大きくしたのが悪いという話でも無いと思う。
沢山の原作者たちが、自分たちの生み出したものを軽視され、都合よく搾取され、犠牲になってきた。
原作者が時に魂を削って作り出したものを、安易な形で剽窃したり歪めたり、好き勝手やってきた文化があった。

そういった積りに積もった業界の澱が、今回の件がに限らず、いよいよ業界外のただただエンタメを楽しんできた世間にも見逃せないほど漏れ出てきて、目を背けるのも限界がある。
最近巷を騒がせている松本人志の件も合わせて、そう思うのだ。
限界なのだ。業界自体が。

あんまり色々なトピックに触れれば触れるほど、まとまりが無い文章になるし、私自身の浅はかさもバレる。
とはいえ、あくまで備忘録なので連想的に触れておくと、最近ヒットしている「ゲゲ謎」(鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎の略)。
キャラクター造詣の見事さなどと並べて語られているのが、「因習」のいやらしさ、救い難さをよく描いているということ。

芸能界をはじめ、テレビ、アニメ、出版など、それらを大きく引っくるめて表せる「エンタメ村」の因習が、そろそろ破壊される時なのかもしれない。
ピュアで居られない私は、人間が人間である限り因習は無くならないと思っているし、今後も痛ましい理不尽とそれに伴う犠牲はあるのだと思っているけど。
とはいえ、少しずつ、少しずつでも変わっていけばいいし、変えるべきなのだ。

芦原先生の「砂時計」を、10年以上昔に読んだことがある。
久しぶりに話題になって思い出した、この作品は恋愛もそうだが、それ以上に自殺遺族の心の傷に焦点が当てられていた。
幸せを掴み取ろうとしても、母親の死がフラッシュバックしてしまい、自分もその深淵に引き摺り込まれていきそうな……主人公がすぐトラウマを乗り越えてハッピーエンドといかない、その揺り戻しや浮き沈みが大変リアルだったのを覚えている。

あそこまで自殺遺族のことを解像度高く描いた作家が、自死を選ぶということ。
その重さを、私達一人一人が考え、己に問い続ける必要がある。

「ゲゲ謎」の因習村で生きる女たちは、誰もが加害者であり被害者でもあった。
だから、この問題を個人に還元してはいけない。
個人に還元してしまえば、その人間が切り捨てられ、責任を背負って犠牲になるだけで、「因習」は続いていく。
我々が目を向け、批判するべきは、このエンタメ村を取り巻く良からぬ空気、因習そのものだ。

どうすればより健全な形に変えていけるかは分からないけど、個人批判に落ち着かない形で、この件は己に問い続けたいと思う。

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