240803

友人と飲みに行った。
最近できた恋人と、映画を観た時の感想が合わないことを嘆いていた。というより、自分の感動している部分に心を動かされていなさそうな恋人に苛立っているようだった。話しを聴きながら、同じような経験がいくつも浮かんだ。彼と私は似ている部分があるからか、その苛立ちには容易に共感することができた。たとえ同じ部分に感動ができなくても、恋人が何か別の部分に感動してその映画を観ているのであれば、その観点をリスペクトできればその人のことを愛せるのでは?と話した。話しながら、自分のことを考えた。同じく恋人と同じことを面白がれない自分を思った。相手の面白がるポイントを理解できない自分のことを思った。私は、恋人が過ごしてきた時間や、趣味に費やした熱意や、その結果として得ている友人関係や、スキルを、尊敬しているし、尊いものだと思った。それと、私が大事にしているものはすこし、違う場所にあるんだと気づいてしまった。大事にするものをどう大切にするか、そのやり方が違うと思った。ちゃんと向き合ってそれを伝えられるだろうか。人生において、短いながらも一緒に過ごした時間とか、気持ちの動きとか、それを、こちらの気持ちで終わらせることを、長い目で見て向こうにとってもプラスで終わらせることができればいいと思った。別れたいと伝えたらどんな顔をするだろう。自分の人生になんとなく変化が欲しくて、恋愛をしようと思った。いざ踏み込んでみたらちがうと思った。1人で遠くに行って、その場所の空気を感じて、その時の感情を大切にする方が、一緒にいることよりも楽しいんじゃないかと思ってしまった。始まりは同じ気持ちだったはずなのに!(でもその時私は、同じ気持ちとは思っていなかった、その浅はかさと傲慢さが、今のすれ違いを産んでいる気がする)変化の道具にすることを望んでいたのに変化の道具にされることを一つも望んでいなかった。関係が変われば何か変わるかもしれないと思った。全部が間違っていたかもしれないけど、間違いを間違いのままにしないためには、誠実に向き合う必要があることを、これまで間違われてきたことで学んだ。間違われたことが、私に勇気をくれたことがあった、付き合って別れることが0か1ではないと知った、それは、全て、これまで関わってきた人たちのおかげで、私もそうあれればいいと思う、これはとんでもなく傲慢な考えで、私と彼は同じ人間ではないから、何一つ伝わらないかもしれないけれども。0.01くらいで、よかったと思われることができるならいいな、と思うのは、私のメサイアコンプレックスのせいかもしれないけど〜。なおもよくあろうとすることをやめないことが、私をよくしていくと思うし、正しく培われなかった自己肯定感をなんとか保っていく術だとわかった。これも自分本位でしかないけれど、も。わかられたいし伝わられたいな〜。これを読んだら悲しまれるかな

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