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ケモ夫人、ちいかわ、BEASTARS 愚かさ・かわいさ・『着ぐるみ』と人間表象(雑記)

昨日衝動的にケモ夫人の話を書いたところ、なんとその日のうちに第二話がきて、うなってしまった。

これだよ!僕が見たかったものは!!

1話への反応について、「斧」とか「巨人」とか「討伐」とかの単語が出てきたことで、『ケモ夫人』(作品の名前として扱うときは『』をつけることにします)が『ちいかわ』みたいに、可愛いキャラクターに理不尽なバトル状況を押し付けギャップを楽しむ作品のように捉えられていることが多かったように思う。しかし、『ケモ夫人』のトロの部分は、そっち方向ではないんじゃないかな、と僕は思っていたし、2話を見てそれは確信に変わった。
(いや、僕は作者じゃないしまだ2話までしか出てないので「そうでない」とは断言できないのだが、あくまでどこまでも「僕の見たかったもの」「僕の癖」ということで発言させてほしい)

ケモ夫人のお人柄について

2話のケモ夫人は、渡された斧を受け取ったようだが、次のシーンではCafeに足を運んでおり、お茶を飲みながら「巨人ってどのぐらい大きいのかしら…」と思案にふけり、そのまま寝てしまう(!)。

寝ちゃうとは……。ご夫人は、どこまでも呑気だ。というか、見たこともない武器を持って討伐に行けとか言われているのに、考えることが「巨人はどのぐらい大きいのか」。違うでしょう夫人ッ!!あなたがお茶を飲んで寝ている間にも!!討伐隊は巨人にひねりつぶされ!!私の夫と息子もッ!!あなたは何もわかっていないッ!!あなたも、討伐に行けば、しッ、死ぬんですよッ!!
すみません、ちょっと存在しない記憶が流れ込んできてしまいました。ともかく、ケモ夫人は「自分が加害される可能性」について全く考えていない。これがここのキモだ。
『ちいかわ』の無計画なハチワレや言葉のしゃべれないちいかわだって、討伐にいったら怖い目にあうことぐらい事前にわかる、というか、わからなくても戦いになったら何かしら自分に害がある可能性ぐらいはわかる。だから武器を買ったりするし、「大きい討伐」はキアイを入れて臨む。対してケモ夫人は、今までそういう、自分が害される状況や、加害の意思に全く触れてこなかったために、何かが自分を加害してくるという発想に至らず、心配したり恐怖することすらしない。
極めつけに、うだうだ悩んでいる間にケモ夫人は「寝てしまう」。討伐に行くのか行かないのか、決めることすらできずに、ご夫人、無防備すぎる……そういうところがッ……ハァッ……クソッ……俺たちの気も知らないでッ……このッ……美味いものばっか食って育った体がよ……失礼しました。ここから先は憶測になるが(憶測でない部分があったか?)、ケモ夫人はそもそも「何かを決める」ということすら満足にしたことがないんだと思う。押し付けられた斧だって断り切れずに受け取っちゃってるし。
ケモ夫人は育ちが良く美しく豊満だ。きっと今まで、ケモ氏(ケモ夫人の夫)とか家族とかが全部決めてくれてるし、それで不満を持ったこともなかったのだろう。そして、美しいから困った時には困った顔でいるだけで周囲の人々がなんとかしてくれたんだろう。そういう環境こそが育ちの良さともいえる。だから、自分の命がかかっている、討伐を押し付けられるという場面になっても、何一つ決めることができないで、見当違いな心配をしているうちに寝てしまう
そういう意味で、ケモ夫人は愚かだ。討伐の前に武器を自分で買ったりして、「加害される状況」を想定して恐怖したり対策したりしているちいかわの方が、まだ現実を見ている。ケモ夫人はちいかわより知能が高いし社会的な身分もあるだろうが、愚かだと言っていいと思う。そして、愚かだからこそ、ケモ夫人はかわいいのではないかと僕は思う。

愚かないきもの、そのかわいさ

愚かであること、弱いことはかわいい。

作者注:これは「かわいいものは須らく愚かで弱い・又はそうあらなければならない、あるいは愚かで弱くなければかわいくない」という意味ではない。誰かや何かを攻撃する意図はないし、読者個人の思想信条を否定する意図もない。あくまで僕の見解のひとつであり、記事の作者として記事内では主張するものの、「これが世界的に妥当なコンセンサスである」とまで明言する気もない。
また、これは論文とか学術資料ではなく、あくまで作者自身の経験や感じたことをベースに、装飾的な表現・大げさな言い回し・与太話を含んでいることを承知してほしい。
作者は文化や教養の専門家ではないので、そこまでして読むべき文章ではないし、読者の精神の平穏と時間を消費してまで読者とバトルすることを求めるものでもない。この時点で不快感を覚えた方はブラウザを閉じ、自分の好きなコンテンツを見たり、サウナに行ったりして精神の平穏を保ってほしい。

犬が長い棒をくわえてしまったせいで玄関に入れず途方にくれている様を想像してほしい。あるいは、幼児が「ビスケットを食べたらなくなった」とか、大人からすれば意味不明なことで真剣に泣いてしまう場面を想像してほしい。愚かでかわいいだろう。
あるいは、小さく弱弱しいチワワと巨大でたくましい土佐犬の両者を前にして、「どちらがかわいいでしょうか」と聞かれれば、ほとんどの人がチワワを選ぶだろうが、もしチワワが死ぬほど狂暴で常に涎を垂らしながら唸って牙をむきだしていて、土佐犬のほうがおとなしく従順で愛想がよければ、逆になるかもしれない。自分に直接害を及ぼしそうなものをかわいいと思える人間は少ないだろう。
かわいさという概念は愚かさ、弱さ、小ささ、無害さと強く結びついている、と言って過言ではないと思う。

そういう意味で、ケモ夫人は愚かでかわいい。自分を加害してくるかもしれない可能性を何一つ考えず、挙句眠ってしまう無防備で愚かなケモ夫人は、外界を知らない無垢な子犬のようにかわいい。かわいいね……。

動物表象=『着ぐるみ』でエグさを脱臭する

しかし、「愚かだからかわいい」ということを明言してしまうのは、前項で何行もかけて予防線をしいたように、かなり危険である。犬猫でも言われたら不快に思う飼い主もいるだろうし、あまつさえ人間相手に「〇〇さんはおバカでかわいいねー」なんて言ったらたいへんだ。
加えて、愚かさや弱さというのは個人の生まれや育ち、どうにもならない生得的なものに強く依存するので、前述したような「温室育ちなので世間知らずで愚かでかわいい」なんてことであればなおさら現実世界では言えない。僕も言われたらキレるとおもう。
現実世界でなく創作上でも、現実にジェンダー関係の様々な事象、ポリティカルコレクトネスへの配慮、格差の問題が存在する以上、生得的なものに基づく扱いを描写することは、読者にとって「作者が意図した以上のエグさ」を与えかねない危険がある。

『ケモ夫人』で安心してケモ夫人の愚かさ・かわいさを摂取できるのは、ケモ夫人が人間ではなく動物の姿をしているからだ。(もっとも、その体型は豊満だが)。彼女が妙齢の女性の姿をして描かれていたら、ちょっとエグかったというか、意図しないエグさの表出を招いたかもしれない。『ちいかわ』も、ちいかわたちのかわいらしい動物の外見と世界観のギャップをコンテンツとしている側面があるものの、人間でないキャラクターの姿をしていることで、彼らに降りかかる困難・悲しみをエグみなく摂取できるのではないだろうか。キャラクターに動物の表象を与えることで、いわば『着ぐるみ』を着せるように、状況やストーリーに付随するエグみを脱臭できているのではないだろうか。(もちろん、『作者の意図はこうだ!』と決めつけるつもりはない。層に届くキャラデザというだけだろう。これはあくまで副次的なものだとおもう)

この論に思い至ったのは、『BEASTARS』の作者、板垣巴留のサイン会での記憶が根底にある。参加者からの質問を受け付けるコーナーで、僕は「なぜ人間ではなく動物・獣人で描くのか」というような趣旨のことを聞いた。板垣先生は、「私が描きたいからそうした」という前提を置いたうえで、「動物の姿で描くことで、人間でやると生々しすぎたりエグい描写も受け入れられやすくなる」と述べていた。たしかに『BEASTARS』の作中では、肉食と草食、生得的な種族・性別の違いからくる力関係の上下、本能、性、食肉といった題材が縦横無尽に扱われており、作品の根幹に食い込んでいた。例えば食肉は人間になおせば食人行為で、かなりエグい。それでも多くの人に受け入れられていたのは、『着ぐるみ』の力によりエグさが脱臭されていたためでもあるだろう。

他者への言及・表現のタブー化と動物表象

特に近年、様々な観点から見て、他者の肉体や外見をはじめとする生得的なものに言及することは、たとえそれが好意的なものであったとしても、タブー視されるむきがあり、その影響は創作上の世界に及んでいるといって過言ではないとおもう。表現されたものが作者の意図した以上のものを主張しているととられる場面も少なくない。受け取り方は読者・視聴者の自由であり、作者がそれを制御することはできない一方で、思ってもいないことを「主張している」とされて炎上したりするのは、作者にとっても大変なことだろう。具体的な例までは適示しないが、人間の表象で表現すること自体にリスクが伴うようになった、と言ってしまってもいい。
そこで人間ではなく動物、あるいはキャラクターを使って表現をする、という方向に向かっていくのは、興味深い現象ではないだろうか。動物やキャラクターの『着ぐるみ』を着せることで、「人間表象について表現しない」ということを選択できるのだ。
ただしこれは注意が必要で、登場人物(人物?)を人間表象と動物表象に分けてしまうと、人間表象で表現したほうの外見・肉体的要素を強調することになってしまう。具体例までは出さないが、作者自身であろうキャラがかわいらしい動物表象であり、好意的に描かれていないキャラが特定の属性をもった人間表象で描かれている場合、そこに意味や意図が発生しているという主張が受け取られてしまう、ということは大いに考えられる。
我々は、人間表象による表現の、大きな節目に立っているのかもしれない。

それはそれとしてケモ夫人は良い

ずいぶん話が飛躍してしまったが(飛躍させた)、ぶっちゃけ今までの話は与太話で、ケモ夫人のキャラが本当に良いということの前ではただもにょもにょ言っているだけにすぎない。ケモ夫人が魅力的だからこそ、たくさんの人が共有しファンアートを書いているということは明らかだ。もし作者の人がみていて、「こんなこと考えられてるんだ…」とか思って心に引っかかったりしたら、これはただ、理屈をこねるのが好きなだけのファンが適当こいてるだけだと思ってください。あるがままのケモ夫人がみたいので……。

ケモ夫人、応援してます。電子版買います。あと絵が描ける人は成人向けファンアートをたくさん描いてください。待ってます。


サウナに行きたいです!