最近の記事

2024-10-23 安達太良山

紅葉の安達太良山に行ってきました。

    • 毎日現像生活 1日目

      この写真は、一眼レフを初めて触った日(2021年11月13日)に撮った写真。D810を使っていたのでISO3200でも結構ノイズがのっている印象。(当時は設定が何もわかっておらず、とりあえず一番写りがいいとネットの記事に書いてあったF8固定で撮影していた) カメラに詳しくなかった5年前の写真でも、自分の好みの景色があまり変わっていないことに少しだけ驚く。もう20代も半ばとなると、自分の感性もあまり変わらなくなってしまうのだろうか。うれしいようなかなしいような。 写真を撮る

      • 大人になって

        よく大人になることはよくも悪くも「諦め」を持つことだと言われることを耳にする。これはある意味正しい。 やりたくもない仕事を押し付けられたときに、「これやりたくない!!!」と言って駄々をこねて許されるのは学生までだろう。(就活が早期化した今となっては高校生くらいまでだろうか) じゃあこういう時に「大人」はどういう行動をとるかというと、主に2パターンだと思っている。一つは、大人の「諦め」をもってしぶしぶその仕事に取り組む。もう一つは、やりたくないという気持ちを婉曲的に(つまり

        • ミンミンゼミは一種のお経である

          やたらとミンミンゼミが鳴いている。 関東に来てこれで三度目の夏だが、未だに街中をミンミンゼミが鳴いているのには慣れない。どこか夢の中にいるみたいな気分になる。 関西出身の人間には周知の事実だが、夏の大阪の街中にいてミンミンゼミのあの特徴的な鳴き声を耳に聞く機会はほとんどない。もっぱら聞こえるのはクマゼミの鳴き声だけだ。 自分が小さい頃、ミンミンゼミの鳴き声を聞く機会といえば、テレビの中だけだった。自分が知っている変な鳴き声の動物といえばホトトギスくらいだったので、このセミ

        2024-10-23 安達太良山

          Nikon Zfのある人生、ない人生

          Nikon Zfを買ったのは、フラッグシップ機譲りの最新機能が搭載されていながら、そのクラシカルの見た目に惹かれたから、というこの一点に尽きる。この理由で購入した人はおそらく多いのではないだろうか。 最初はそのアンビバレントさに若干違和感があったものの、使っているうちにその操作感が絶妙すぎて気にならなくなった。唯一懸念だったグリップの弱さも外に持って出かけているうちに気にならなくなっていった。というか、外付けのグリップ(SmallRig)がむしろ邪魔なくらい、絶妙に手になじ

          Nikon Zfのある人生、ない人生

          工事現場にて

          再開発が進む地域で、また大きなビルの工事が始まっていた。 その現場ではビル本体を構成すると思われる鉄骨が3階くらいの時点まで出来上がっていて、そこからさらに物見の塔のようなものがあり、さらにその上に大型クレーンがその手を広げていた。 自分は建築の専門家ではないが、仮囲いの外側から眺めているだけでもその景色は壮観で、見ていて飽きないものだった。 一台のクレーンが、数本の細長い鉄骨を梯子のように固定して地表から一番上の層まで運んでいく。 その様は、細い糸に繋がれた数珠のイメージ

          工事現場にて

          最近の写真 #1

          家の近所の大きい道。遠くに見える高層ビルが霞んで見える。 雑居ビルが並んだ先に高層ビルが屹立している構図が近未来感あって好き。 そのまま神田駅の方に歩いて行くと、首都高速の下をくぐることになる。 信号待ちをしているときに渡った先のイチョウが綺麗だと思って撮った写真。車がいい感じに入った。 多摩川の河川敷をひたすら歩いたときに二子玉川で撮影した写真。 ベタな写真かもしれないけれど、綺麗なものは綺麗なのでよしとする。 ススキと枯れ木。

          最近の写真 #1

          朝まで寝たい

          最近夜中に目が覚めることが多く、理由を考えてみると以下3つの要素と思った。 ・パジャマがめくれている 自分はいわゆる子供が着るような生地が薄めのパジャマを着て寝ているが、上半身部分がめくれてしまい、その違和感?で目覚めるパターン。 この対策は単純にパジャマの上をinすればいいだけだと思う。 ・ベッドから落ちかけている ベッドの配置として、仰向けになった際、壁が左側に沿ってあるという構造なのだが、目が覚めるとベットの右側に体が偏っており、半分落ちかけているというパターン

          朝まで寝たい

          対象物・環境への期待

          「純粋さ」について、ふと考える機会があった。 自分は「純粋な気持ち」という概念を神聖視している節がある。 ここでいう「純粋」とは、言語化するなら「自分の対象物に対する期待がそっくりそのまま対象物から得られるかどうか」みたいなところだろうか。 上記の定義に沿うなら、好奇心といった感情がこれに当てはまるのではないかと思う。 例えば「織田信長について詳しく知りたい」と思ったとき、図書館やインターネットで織田信長に関する文献を探すことになる。 それらの文献(=対象物)を読み、知識

          対象物・環境への期待

          自分の書く文章が嫌いであるということ

          日々の生活の中でいろいろ考えることがあって、その中で自分なりに正解を見つけて生きているはずなのに、その思いを文章(書き言葉)にしたとたん、急にその思考が薄っぺらく、価値のないものに感じてしまうのはなぜだろう。まぎれもない自分の気持ちのはずなのに。 そのいやな気持ちが、自分の大好きな文章の世界を自分で作りたいと気持ちを何度も圧倒してきて、これまで文章をまともに書く、ということができなかった。 だけど、ある理由から、自分もその嫌な気持ちから逃げずに、本気で自分の書く文章、もっと

          自分の書く文章が嫌いであるということ