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おいしさをより感じるためにはgiveの精神を


食事を美味しくするためには


提供してもらうもの(五感に訴えかけてくるもの)=takeと自ら美味しいと感じられる力=giveの精神が必要なのでは?

提供されたものに対して素直に「美味しい」と思える、「美味しい」と感じられる状態を自ら作っていくことが食事を美味しいと思える1つの方法なのではないか?
と思った。

以下考察。


食事をする時に気にすることは何だろう



栄養バランス、好き嫌い、値段、美味しさ、
ブランド、無添加、誰が作っているか、などなど
気にする人であればあるほどその人独自のこだわりが垣間見えるだろう。

その中でも「美味しさ」は多くの方は気にするのではないかと思っている。
だって、美味しくないものは食べたくないでしょ??

わざわざ美味しくないものをお金と時間を使って食べることは受け入れがたい。
理由があるとしたら、時間がない状態でも栄養を摂取しなくてはいけない状態や、消化ができない状態での栄養液とか。

食材、調理方法、調理をする人の技術、知識、科学的に旨味を作ることもできるが、人によって何に美味しさを感じるかは違う。


僕は同じ「美味しい」を感じられる人と一緒に食べる食事が一番美味しいと思う。
それは、美味しいものを美味しいと思える安心と安全があるからではないかと思う。

みんなはどう思う?

たとえ知り合いと食事をしていても、食べる料理を不味いと言いながら食べる人と一緒に食べると美味しく感じない。
どんなに高級料理で、料理人の技術が優れていてもきっとそうだと思う。
だから、同じ食事をとった時に同じように「美味しい」と思える、または「美味しいね」と話ができる人と
食事をすることが「美味しい」食事をするために必要なことではないかと思う。

この間私語厳禁の料理屋さんに連れて行ってもらった。
ただし、食事をして「美味しい」と感じたら、「美味しい」と声に出して欲しいというルールだった。
私語は他のレストランや料理と比べるような話や、食事以外の話のことだ。
この制限された空間では皆「美味しい」と声に出して食べることができる。
意識して「美味しい」と言葉にする時間を提供してもらった。
それがより美味しく感じられる手段なのではないかと思わせるほど、美味しかった。

美味しいのハードルが高いのではないか?

正直何食べても僕は美味しいと感じられるめちゃめちゃ幸せな人間だと自負しているんだけど、美味しいと言葉に出すことって少ないかもしれないと思った。

「美味しい」と言葉に出すことにプライドがある?

「まあ、まあ」とか
「どこそこの方が好きだけど、ここもいいよね」

みたいな。きっと美味しいものをたくさん食べ過ぎて「美味しい」のハードルが上がってしまっているのではないかと思う。

でも、美味しいと言葉に出すことでより「美味しい」と脳が認識できると思っている。耳からその情報が伝わり、味覚や視覚、嗅覚、そして聴覚で食事をする。

「美味しさを伝えることの難しさ」


どんな美味しさであるかを相手に伝えようとしても、美味しさを言葉にしようとすればするほど
その「美味しさ」を表現できない。自分の語彙力のなさを痛感するとともに、
「美味しさ」は言葉にしない方が良いものなのではないか?とも思う。
自然と目をつむり、五感を絞る。味覚に集中する。飲み込んでしまうのがもったいないと思ったのは初めてだった。

まとめ

・提供されるものだけでは個人が美味しいと感じる要素を満たせないのでは?
→こちらから美味しいに近づける方が美味しい?

・提供された食事や空間を素直に受けとめ「美味しい」と感じたら「美味しい」と言葉にして声に出すとより美味しいのではないか?

ん〜なんだか伝えたいことの30パーセントしか書けなかった気がするから、音声での説明も追加しよう。
文章だけでは伝えられない。
→音声のリンクを貼る

おしまい


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