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タイピングする文章とそうじゃない言葉の違い

久しぶりにPCを買った。10万円した。ただただ文章を書きたかった。
それだけの理由で10万円使ったのだ。無職なのに。無職だって貯金があれば10万円だって20万円だって使ったっていいじゃないか。お金は使うためにあるし安心するためにあるものだ。

僕が買ったものは安心なのだ。お金が安心だったのははるか前のことで、今は自分にお金があるからと言って安心することはできない。働いているからと言って安心できない。家族がいるからといって安心できない。安心とはどうなっても問題ないということ。問題ないとは問題がある状態にならないということだ。問題とは何か?それは自分の心が死ぬことと自分の生命が終わることだ。このうち自分の生命が終わることは避けられず、いつ何が起こって自分の生命が終わるかはわからない。急に心臓が止まるかもしれない。歩いていたら事故にあうかもしれない。病気になるかもしれない。誰かに殺されるかもしれない。だが、たいていそんなことは起こらない。起こらないのに起こるかもしれないと思い心が弱ることが心の終わりに近づくのだ。生命の終わりを想像し不安になり心が死んでいく。そのために生命の終わりがなるべく来ないように、防げるように予防する。未来を見越して行動するようになる。そうすると今を生きることがしづらくなる。

今を生きるとは何か?今したいことをすることだ。今思っていることを表現することだ。今を生きることができなくなるというのはしたいことや表現したいことが未来に起こるかもしれない生命の終わりにつながることが想定され今を優先することがしにくくなるということだ。今と未来の優先順位は自分がどの程度心と身体の終わりを別途できるかというリスクを張れるかどうか、何を優先したいかで決めることができる。その自由が今自分にあるかどうかで自分が自由かどうかを見極めることができる。これができないというのは他者から物理的に拘束されていることや言論を支配されているということのほかに自らの優先順位を定めることができない自分で選択肢を生み出しそれを決定するための基準を持ちえないということによって自由ではないという感覚になり、実質自由ではないということが起きる。自由ではないとどうなるのか?生きがいを失う。生きている時間が空虚になり価値をみいだせなくなる。そうなると自分にとって負荷がかかることをやりたくなくなるし、やりきれない。やったことによる希望を見出すことができない。なぜなら空虚だから。空虚の先には空虚が待っている。困難に立ち向かう際その先に希望があるから立ち向かうことができる。その先に待っているのが空虚なものであったり、絶望が待っていると立ち向かうことができない。

これは未来と今の話にも似ている。未来の希望を叶えるために今を生きていくという行動指針が成り立たない、つまり未来が良いものだと想像できない場合、今を生きることができないということになる。ただ今を生きるということは続けられない。なぜなら今は正確にいうと今ではないからだ。この瞬間の自分の気持ちや欲を人間は認識できない。今という認識を時間にして表すことができない。僕は文章をただただキーボードで入力がしたいと思い家電量販店に向かって購入するまでに2店舗見て回り、時間にして2時間くらいをかけ購入し、その後PCのセットアップに30分をかけ、今文章を書き始めている。キーボードに文章を入力したいという思いを叶えるために2時間30分かけて叶えた。これは今を叶えたのではなく未来の気持ち、欲をかなえた。未来の希望、文章を入力することで僕は自分の思いを言葉にして入力して表示してアップすることができる。それによって自分の欲を自分で叶えることができたという達成感や、お金を使うことで得られる感覚、人生を前に進めているという感覚、暇をつぶしたいという欲などを満たしたのだ。それが満たせるという希望を抱いたから2時間30分をかけ予算と機能、自分の欲を満たせるかどうかを比較検討し選択した。

今の今この瞬間に生きるということは一体どういうことなのか?どこまでの時間を今と置くかで今と未来は一つになりえるのではないか?今と未来を分けることがらの一つは感情と理性に矛盾が生じた時かもしれない。こうして僕は今文章を書くことができてとても満足している。だらだらと文章を書くことが小学生のときから得意だった。読書感想文は何枚でもかけた。脱線に脱線を重ね結局何を言いたいのかも分からず読み手を無視して自分の今を目の前に表現することが一番できることなのかもしれない。これは自分の声に出して表現をすることと明らかに違う。

自分の言葉を声にだすことと、文字にして入力することの違いはどこにあるのか?僕は一人で声に出してポッドキャストを収録することができない。なぜなら疑問に思ったことを声に出している間にその疑問に対する言葉が思い浮かんでそれを声に出すまでもなく答えを出すことができるからだ。だから収録することができない。自分でわかっててどうしてこうなんだろう?と問うてそれはこうなんじゃないか?と自分の声に出して残すことがたまらなく恥ずかしい。演じているように感じる。嘘をついている。ごまかしているように感じる。その点文章には感情がないように感じる。その瞬間その文字を入力しているときの気持ちはその入力しているときのままで問いが思い浮かんでからその答えを出すことができない。思考のスピードが遅くなっているからなのか?ちょうどよい。これは紙に文章書くことともまた違う。入力することと文字を書くことでもまた感覚が違う。紙に書くときは感情を表現することができる。筆圧や文字の大きさ、それに言葉で表現できないものは絵にしたり色を使って表現することができるからだ。ただただ文章をこうやって入力することで僕は今を表現できる。文章を整えることはしたくない。それは今じゃなくなるしめんどくさいからだ。もうすでに自分が考え終わっている出来事をもっとわかりやすく間違いのないように整えることは僕のやりたいことではない。僕のやりたいことは今をこのスピードでただ表現することなのだ。感情もなく。この感情もなくというのは客観的に表現することができるという意味だ。

疲れた。僕が今無心で書き続けられる文章量は2608文字だということが分かった。もう今は書きたくない。


サポートしていただいた費用はたばこと生活費になり僕の血と肉と骨になってまた書けます。