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退屈して借金して4年後に自己破産した話#3

就職先が決まり田川を出ることが決まったすぐ後に、彼女と出会った。詳しいことは書かないし書いたら怒られるからあんまり書かないようにしたい。そもそも僕の一目ぼれだった。借金まみれでニートでいわゆるまともに生きていない僕は、人を好きになったところで成就するわけもないと思っていたし、それを相手に受け入れてもらおうなどという図々しさを僕は持っていなかった。仕事も決まっていたし、次の行先である福井県は彼女の住む場所と2時間くらい離れた場所だったこともあり、破産して仕事もちゃんとして。関係を進展させられるよう今のうちに仲良くなっておこうという計画を立てた。こういうところは僕の想定する力はとても役に立った。

だが僕の想定を大きく裏切り、すぐに付き合うことになった。僕は彼女といると想定外なことがたくさん起きて楽しかった。何より借金まみれでニートでまともに生きていない僕を受け入れてくれたことが何よりも信用できた。僕は結構いいやつらしいということも理解できた。昔からなんだかんだ友達にも恵まれ人間関係で困ったこともなかったのはこうした方が関係性がよくなる、維持できるなどという判断のもとそれを実行できていたからだった。でもそれは僕の思いや気持ちに沿ったものではないことも多くそれによって作られた関係性を僕はあまり大事にできていなかったかもしれない。素っ裸の僕を受け入れてくれる人がいるということが分かった。

久しぶりに仕事をするととても楽しかった。僕はあんまり仕事で成果を上げられる方ではないと思っていたが、仕事はできるということが分かった。でも、めんどうくさがりが発動しだんだん、なあなあに仕事をするようにもなっていった。僕が仕事上で好かれる範囲、好かれにくい範囲というものがある。好かれにくい範囲は40代~60代までの男性だ。僕はフラットに接するので相手のプライドを傷つけてしまうことがあったり、生きがいだったり大事にしている仕事を軽視しているような言動が鼻につくことがよくあるというのが自己分析。相手を怒らせてしまう。僕は人生で怒ったことがおそらく5回もない。イライラすることはあると思うが怒ったことはほとんどない。他人に対して怒りの感情を伝えるということが考えられない。だから怒られるととても冷める。いろんなものをコントロールできると思っている前提を持っていることに飽きれる。怒りを伝えることで物事がうまくいくと思ってやっているのか、あふれ出てしまっているのかわからないが申し訳ないが僕はそれをされるととても冷めてしまう。僕が原因で相手を怒らせてしまった場合でもそれはあまり変わらないことが多い。反省するポーズを見せていたことが多かったが、こいつには何を言っても無駄だと思ってもらう方が僕にとってはありがたかったりするので今回はそうしてみることにしていた。これは僕がただ傷つきたくないという防御反応なんだろうと思う。いつからだったのか?怒られて反省した記憶がない。そういうこともあるだろうと思って自分を守ってしまう。だから基本相手を許せることが多いので僕との付き合いは居心地が良い人が多いと思っている。僕に対して気を使うことが少なく過ごせるのではないかと思っている。実際どうなのか知りたい。僕は気を使うをいうのは相手にとって失礼なことだと思っている。気を使ってあげないと気分を害してしまいますよね?気分を害されるとこっちは迷惑なのでやってあげます。みたいな気持ちの表れが気を使うということだと思っている。だから僕は気を使われるのが嫌いだし、気を使うことも嫌いだ。気配りは大切だと思っている。それは優しさから生まれるものだとおもうから。優しさも時に相手を傷つけたり相手のためにならないこともある。ただの言葉遊びのような気もしてきた。僕がよく思うのは愛は受け取った人が愛だとそれを認識したときに愛となり、それまではただのエゴだというものだ。エゴが悪いわけではなく、エゴは相手を傷つける可能性を秘めている。だからそれを愛を受け取ってくれたことに感謝した方がいい。伝える側はいかに愛と受け取ってもらえるように伝え方を工夫することしかできない。ということだ。僕はこのエゴのエネルギー量はすさまじいが受け取ってもらうための加工にスキルが必要でこのエネルギーをうまく活用できていないのが人間の負の原因なのではないか?と考えている。これはまたそのうちどこかでまとめて考えたい。エネルギーがもったいない状態だと。

仕事よりも彼女と一緒にいられる時間を優先し、破産を完了させて退職。引っ越しを行ってまた無職になったのが今である。生活コストが下がっていたことや給料が良かったこともあって貯金も十分にある状態で僕は退屈に過ごしている。しあわせは面白くない。退屈も悪くない。だが、あまりにも死まで長い気がする。いつでも死んでよいが積極的に死にたくない。自殺なんてものはもってのほかだ。もったいない。この考えは自分にだけ適用する。他者が自殺したいという感情を持つことや実行してしまうことを僕は否定しない。なぜならその人が自分でできる選択がそうなのだからそれを否定することは僕にはできない。もちろんそうならないにこしたことはない。助けた方がいいし助けられた方がいいし、助けを求めた方がいいし、助けを求められた方がいい。でもそうできないのならそうなってしまって仕方がないと思ってしまう。よく友達には死にたくなったら僕にご飯をおごってから死んでくれと言っている。僕は友達の分まで生きたいし、どうやって自殺するか相談にものってあげたい。そうなった経緯を話してもらえるのであればそれでもいいし、絶対に止めない。止める立場になってあげられない。そんな責任を負えないからだ。僕はそれくらい弱いし力がない。僕はどこまでいっても利己的だ。利己的に利他できることしかできない。だからなるべくそういった出来事がないように祈ることにする。

過去は振り返った。次は未来の話。これからどうするかを考える。
いったん終わり。簡潔にこの4年をまとめるとめちゃくちゃ面白かった。一区切りついてしまったことが寂しい。面白かったアニメやゲームが終わってしまって悲しい気分と似ている。次も面白くなるように自分の想定をぶっ壊すと思うがぶっ壊し方を変えてみようと思う。自分の常識を更新することは心が動きやすく退屈しない。

おわり

サポートしていただいた費用はたばこと生活費になり僕の血と肉と骨になってまた書けます。