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権利擁護の授業を受けて思ったこと

現在社会福祉士の資格取得に向けて専門学校に通っている。

その授業の中で権利擁護についての授業があり、そこでこんな事例をみた。

男性34歳 知的障害あり(6歳程度)
貯金2000万円
家族 母
父が残したアパートの家賃収入があり毎月10万円黒字
自分は男性の成年後見人

男性から60万円する羽毛布団を購入したいと言われた(布団は他にもある)

選択肢
1.男性がどうして布団を購入したいのか話をしっかり聞く
2.母と相談の上後見人が判断する
3.購入しないほうがよいと説得する
4.男性の意見を尊重して布団を購入する

みなさんはどうしますか?
ちなみに弁護士司法書士社会福祉士の種類でアンケートを取った結果、選択肢の上から順番に数が多い結果となった。

僕は迷わず4番を選んだ。
理由は後見人の意見を尊重することを優先した方が良いし、現実的に購入可能だから。

アンケートの結果4番を選んだのは0.7%ということだった。

1番を選択する理由としては、判断能力を確認したうえで、後見人が求めているものは布団ではないことがある可能性もあるからということが考えられた。

僕はこの結果から後見人が失敗する権利が侵害されていると思った。確かに羽毛布団60万円は現在布団がある状態ではいらないかもしれないし、詐欺かもしれないし、60万円は高いのかもしれないでも買いたかったなら買っても良いだろう。

そんなことを言ったら、よくよく話しを聞いてみたら今の布団が嫌だったとか母に布団を買ってあげたかったとか鶏のたまごを温めて孵化させたかったとかその羽毛布団を買わなくても済むような理由かもしれない。

でもそういうことではなく、失敗する権利もあるだろうし、それが失敗かどうかはその先を見てみないことにはわからないではないか。羽毛布団を買ってサギで母にしこたま怒られ悲しむかもしれない、そのサギに全財産盗まれるかもしれない、でもその後それをきっかけに何か良いことが起きるかもしれない。ほとんど起きないような良いことと起きたら困る不幸なことを比べて考えたらそれを防ぐ方が合理的で正しく思えるのかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。人生の責任は誰かが負えるものではなく自分で負うしかないものなのではないだろうか。例え自己判断ができない状態だと周りから見えたとしても。

後見人の話を聞くという行為には後見人の意思を確認する行為だけでなく、周りの環境や人との調整を踏まえた交渉行為も含まれていることがあると思われる。

今日の晩ごはん何食べたい?って聞かれて

おでん!って答えた時に

本当におでんがいいの?
この暑いのに?おでんはご飯のおかずにはならないってよく言われてるし、二人で食べるには作るのも大変らしいけど
本当におでんにする?

って聞かれたら
やっぱりコンビニ弁当にする!って言っちゃうかもしれない。僕に判断能力がないからこんなことを考えるのだろうか。

でも、後見人や周りの家族が後見人のためを思って何かを判断したり説得したり、そういうふうに仕向けることもあると思う。現実的に本人の意志を全て尊重するためにお金や手間や時間や人手やいろんなものが必要になったりする。そしてそれを用意することは他の人の意志を曲げることに繋がってしまうことがある。声が小さい人、社会的弱者、認知症、障害者、その家族、マイノリティは他の多数を優先するためにそこに対する手が回りづらい。だからこそ意図的にそこにサポートが必要なんだと思う。そこに効率性や合理性という大多数が必要とするロジックではないロジックでサポートを出来るしくみが必要なのかもしれない。ただ、行政が管理する福祉にも効率性や合理性は必要で、全てが上手くいくようなしくみには到底なっていない。

この前プロテスタントの牧師さんの講義を受けて、その人曰く行政や制度のしくみを超えた福祉を行えるのがキリスト教や宗教を前提とした慈愛の福祉だという。確かに別のロジックで福祉を行えるもので行政や制度の網にかからない人を救えるものでもあるのかもしれない。でも、それでも足りないのだろう。

そして僕は、福祉の勉強をすればするほど健常者だって同じように必要としているサポートばかりだと気づく。

障害者が自分で自分の人生を選択し、生きていくことができるようにするべきだ!

という文章には障害者ではない人は自分で自分の人生を選択し、生きていくことができているという意味が含まれているように感じてしまった。はたしてそうだろうか?

もちろん障害を抱える人よりも格段に選択出来ていることは多いだろう。でも、全部じゃない。むしろ自分が本当は選びたい選択肢を生み出せない状況で、今ある選択肢の中から選んでいるだけではないだろうか?つまり自分で自分が生きたいように生きられている人間などこの世にいないのではないか?

全てが思い通りになるわけではない。自分のことだけを考えるんじゃあない。人に迷惑をかけてはいけない。大人にならなくちゃいけない。現実的にこうした方がスムーズにことがすすむ。そっちのほうが生きやすい。我慢することも大切。欲望にのまれてはいけない。足るを知る。時には妥協することも大切。

そんなことをやっている間に自分がしたいことが分からなくなり、やりたいことや実現したいことを叶えるために頑張ったりする力が無くなって、惰性と時々感情が動くエンターテインメントな物をみながらなんとかのらりくらり生きている。

僕はやりたいことをやり続けたいし、自分の望みを叶えてあげたい。でもそのために人に迷惑かけたり、地球を破壊したくない。そのために頑張りたい。他者の自由を尊重しながら、本来出来ないとされていたが自分が望むことを叶えて自由を感じたい。そのために頑張りたい。頑張れない時もあるからその時は頑張らないでいたい。こんなわがままを通したい。

こどもが親にだだをこねる。あれを買ってほしい。あれをしたい。これをしたくない。

親はわがまま言うんじゃないと怒る。当たり前の日常。

これは親のロジックで判断して世の中は思い通りにいかない、お金がない、もったいない、どうせすぐ飽きる、そんな夢は叶えられない。夢ばかり追っていたら幸せになれない。不幸になってほしくない。大変な思いをしてほしくない。辛い思いをしてほしくない。そんな不安を感じたくない。

相手の為に伝えるアドバイスや心配は、それを伝える側感じる不安を解消する為のテクニックの場合がある。それを愛と受け取れる人は、幸せだ。

こんな不幸なことはない。
相手を思って話したことややったことが相手のためにならない。相手を傷つけ、自分も傷つく。

そんなことばかり続いたら、もう人に何かをしてあげようと思えない。関わろうと思えない。誰もかれも傷つきたくないし傷つけたくない。心の本音を伝えられず、当たり障りのないように振る舞って、権力や役職や立場が上の場合は許されることが増えて周りに甘えられる。弱いものは耐える。何かで解消する。我慢できないところは淀み、歪が生まれる。

そんなことが起きないように頑張って勉強したり働いたり元気でいたり笑ったり笑わせたり楽しいものを作ったり美味しいものを食べたり作ったり、なるべく早く寝るようにしたり、感謝を伝えたり、助けたり、助けられたり、音楽をしたり絵を描いたり踊ったり歌ったり運動したり、優しくしたり、優しくされたり、許したり許されたり、愛が愛であるように祈りながら言葉を伝えたい。

誤解と偏見にまみれていうならば、人類みな障害者だ。身体的精神的社会的に生活に困難を抱えて生きていない人間はいないのではないか。今そうでなくてもいつかなるかもしれずそういうリスクはいつでもある。高齢者についても同じだ。老化や認知症介護についても同じだ。自分で自分の人生を選択しても責任なんて誰にもないし取れない。でも全てを自己責任なんて辛すぎる。だって全てを自分で選択出来た人類などいないから。全てをコントロールした世界で産まれてないし生きてないから。偶然にしか思えないことが本当は偶然じゃなくて必然だったとしてもそれを認識できるだけの認知が今出来てないし共有出来てない。

上手くいかなくても悲しくてもただ時間が経過していくだけで全ては何かにつながり悲劇も喜劇も作っているのかもしれない。

と思いました。

サポートしていただいた費用はたばこと生活費になり僕の血と肉と骨になってまた書けます。