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ターフに夢を見たということ

虎猫と申します。普段は趣味で大喜利をやったり、アイマスをやったり、MCバトルを見たりしています。大喜利は割と昔からやっていたのですが、それ以外の趣味は大人になってしばらくしてから見つけたもので、それ単体で見ていくだけでも、きっかけ一つで人間いつ何を始めるのか分からないものだなと、面白いものだなと、そう思うのですが。

ここ一年弱ほどで、一気にもう一つさらにハマったものがあります。
それが競馬です。

親も友達も全くやっていなかったですし、自分もギャンブルには興味もなかったので、今までの人生で競馬とは、自分とは全く無縁のものというか、これからおそらく関わることはないだろうなと思っていました。知識も全く無くて、それこそ近い種類のギャンブルであるところの、競艇や競輪など、それら幾つかある内の一つという認識しかありませんでした。

それが、今年に入って2月頃から今に至るまでの10カ月ほどで、どうでしょう。過去から今に至るまでの有名な競走馬や、主なレースの結果、今の情勢などに至るまで、そういう試験があって覚えたのか?ってくらいの情報量が頭に入ってしまっています。自分の人生とは全く無縁だと思っていた競馬についてこれまで詳しくなっている自分に、今も新鮮に驚き続けております。一体どうしてこんなことになってしまったのか。一体どうして競馬の世界に足をここまで踏み入れてしまったのか。その理由を自分で改めてまとめながら「競馬のこんなところが好きだ!」「こんなところを見て欲しい!」という部分を、この記事では綴っていきたいと思います。長いコースになるかもしれませんが、お付き合い頂ければ幸いです。

きっかけはウマ娘でした。今年のタイミングと聞いたときにピンと来た人もいるかもしれません。同じように、そこきっかけで入った人も自分の周りにいますし、世間的にも多くいるかと思います。今更かと言われたら、確かにそうかもしれません。でも、どうしようもなく、そこでした。ウマ娘、正式名称「ウマ娘 プリティーダービー」はソシャゲのゲームアプリで、実際の競走馬を美少女の姿に擬人化したキャラクターを育成し、レースに勝利していくというシステムになっています。本来なら3年前に配信される予定が延期され、今年の2月に配信がされました。アニメ作品も作られ、第1期は2018年4月~6月に、第2期は今年の1月~3月にそれぞれ放映されています。僕は存在すらあんまり把握していなくて、まともに触れたのは今年放映されていたアニメの2期が話題になったタイミングでした。周りの熱に押される形でアニメを見たら面白くて、1期から後追いで見て、2期はもう何回もぐしゃぐちゃに泣きながら最終回まで観ました。その、まさに一番自分の中でウマ娘が来ているタイミングで配信されたのがアプリ版でした。

アニメもそうですが、アプリに関しては特にウマ娘の世界観は実際の世界における競走馬や、その史実に関して忠実に作られていて、それぞれのキャラクターを育成するストーリーにおいて、キャラクターが出走すりレースや目標などは(たまに、あったかもしれない世界線、いわゆる「if(もしも)」の話などはありますが)そのモデルとなった競走馬の話がそのまま使われる形になっています。要は実際にそのレースで勝っていたら、ゲーム上でも勝つことが求められるというわけです。先ほども言ったように、僕はこれまで競馬には全く関わらないで生きてきましたし、知識も全く持っていませんでした。だから最初は育成の話を見てみても、ただそれを追っていくだけというか、元の史実を知らない故にそこまで感情移入もできませんでした。僕が知っている競馬の知識といえば、ディープインパクトハルウララでした。これは割と共感して貰えると思うのですが、競馬を知らない人でもメディアで名前を目にすることがあった馬というと、このあたりになってくるのかなと思います。もっと前の時代で言うと、オグリキャップとかが社会現象になったこともあるらしいですが、僕の世代だとそのあたりでした。ディープインパクトがすごく強くて、ハルウララがすごく負けている、本当にそれだけが脳内に刻まれている程度でした。

ウマ娘のアニメに感動を覚え、アプリをコツコツやる日々が始まり、ゆっくり、本当にゆっくりですが、自分の中に競馬の知識が入ってくることとなりました。そして“ウマ娘”を通して“馬”のことが分かってくることで、気づけばどんどんとのめりこんでいる自分がいることに気づきました。自分の中で数あるギャンブルの内の一つでしかなかった競馬が、自分の中で存在感を増し、奥行きが増していくのを感じました。僕はいつしかこう思うようになりました。競馬とは、長い歴史の積み重ねであり、伝記であると。


競馬はブラッドスポーツ、血のスポーツという言われ方をされることがあります。競馬について追っていくと、血統という言葉がよく出てくると思いますが、これは馬同士の血縁関係が競馬について重要視されているからで、競走馬はその競争生活を終えたあと、人の手によってですが、種牡馬(しゅぼば)と言われるものになります(ちなみに牡馬=オス、牝馬(ひんば)=メスと競馬では言い表します)種牡馬は自らの子供、これを産駒(さんく)と言うのですが、他の有力な馬と交尾をして子供を産むことで、次の代にその競争生活を託していくこととなります。当然、現役時代に良い成績を残した競走馬はたくさんの馬が付けられることになり、産む子供の数も多くなります。馬を持つ馬主や牧場の関係者、調教師などは、全力を持ってそれらを世話し、産駒をレースへと送り出します。一頭の馬の競走馬生活が終わるということは、次の世代の馬の競走馬生活の始まりとなります。長い競馬の歴史とは、その繰り返しに次ぐ繰り返しによって成り立っており、一頭の馬の歴史は、その子たちの歴史に繋がっているのです。

近いところ、ウマ娘の中で例を挙げると、シンボリルドルフトウカイテイオーは親子関係になります。シンボリルドルフは1983年~86年に活躍した競走馬なのですが、G1レースという、競馬のレースの格付けの中でも一番高いレース(G1が一番高く、G2、G3と続いていく)を7勝するという当時では最多の偉業を成し遂げました。また、三冠馬という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、これは競走馬の3歳のときにのみ走れるG1レース、競馬用語でクラシックレースと称されるのですが、皐月賞日本ダービー菊花賞の3つ(牝馬の場合は、桜花賞オークス秋華賞の3つ)を勝った馬に与えられる称号で、3つのレースはそれぞれ距離などの条件が異なるため、全て勝つことは難しく、これを達成した馬は歴代でも数頭しかいないのですが、シンボリルドルフはその三冠を、しかも1回もそれまで負けずに達成しました。その強さからルドルフは「競馬には絶対はないが、ルドルフには絶対がある」と言われたりすらしました。

トウカイテイオーは90年~93年に活躍した競走馬で、シンボリルドルフの産駒として大きい期待をかけられた馬でした。トウカイテイオーは果たして、それに応えるように無敗で皐月賞と日本ダービーを勝ちます。親子二代での無敗三冠の声が高まる中、しかしトウカイテイオーは故障、その夢は絶たれます。このあたりはウマ娘のアニメ2期にて描かれていますが、トウカイテイオーの競走生活は故障の連続で、最高の血統、いわばエリートでありながら順風満帆なものではありませんでしたが「ルドルフの子供」の肩書を与えられながもケガに苦しみ、それでも走り続けて、三冠は取れなかったものの二冠は達成、また父親が獲ったジャパンカップという海外からの馬が参戦するレースも親子二代で制し、最後は一年の休養期間を経ていきなり出走した有馬記念という年末に一年を締めくくる大レースを勝利で飾るドラマまで作り上げました。ウマ娘内において、トウカイテイオーがシンボリルドルフを熱心に慕っているのは史実での関係性から来ているのですが、こうして親子二代に渡る歴史を見ていると、競馬というものが、1個の点ではなく、それぞれが長い線となって続いていく、果てのない伝記であると思わされます。

親子2頭のレースも貼っておきます。シンボリルドルフは海外への遠征が決まり、国内最後のレースとなった85年の有馬記念。この圧勝ぶりを見ると、本当にシンボリルドルフには国内に敵はいなかったんだなと思わされます。トウカイテイオーはおそらく一番有名なレースである93年の有馬記念で、これはトウカイテイオーがこの一年前の有馬記念後に故障をした後、一年まるまる空けて出て優勝するという伝説のレースなのですが、これ単体でも熱いレースなので観て欲しいです。




兄弟という点の繋ぎ方もあります。ここもウマ娘には登場しているのですが、ビワハヤヒデナリタブライアンという2頭の馬は血縁関係的に兄弟で、兄がビワハヤヒデ、弟がナリタブライアンとなります。ビワハヤヒデは93年~94年にかけて活躍した競走馬で、クラシックレースは菊花賞を取り、翌年春には天皇賞春宝塚記念というG1レースを2勝、世代最強に名乗りを上げるものの、その後まもなく故障して早くに引退してしまいます。一方、ナリタブライアンは94年~96年に活躍した競走馬で、クラシックレースを圧倒的ともいえる大差で勝って三冠馬に輝いたあと有馬記念も制します。その後は故障に苦しんだものの、3歳時の暴力的な強さから今でも最強の名に上げられる名馬です。二頭が互いにレースで当たったことは一度も無いのですが、94年時のビワハヤヒデとナリタブライアンのそれぞれの強さをして、当時、兄弟対決が熱望されたのも当然の流れで、もしビワハヤヒデが故障をしていなかったら年末の有馬記念でぶつかっていたのは間違いなく、結果それが叶わなかったからこそ、その気持ちが強くなっているのもあるでしょうけれど、もし当時最強ともいえる実力を誇っていた“兄”と“弟”が闘っていたらと考えると、本当に熱いものを心に感じてしまうのです。競馬が見せる、点と点が結ばれたときに見える像の強さに、その物語に、僕は強く惹かれていったのです。

ビワハヤヒデの当時の強さを物語る94年の宝塚記念、ナリタブライアンが三冠の最後の一戦にして圧勝した94年の菊花賞のレースも貼っておきます。いかにこの2頭が抜けているのか、この2頭の対決がどんなに価値があったのかが伝わるかと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=LfERKn8XppM&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB


近い年代の話をしていくと、2020年競馬界を大いに沸かせたコントレイルという馬がいます。コントレイルの父親は先ほど少し名前が出ましたが、ディープインパクトという競走馬です。ディープインパクトは3歳時に無敗で三冠馬を達成したのちも、G1レースを勝ち続け、積み重ねたその数はシンボリルドルフと同じ7つ。世界で最高峰のレースと称されるフランスの凱旋門賞では敗北を喫したものの、国内で負けたのは1回のみで、それも2着、残り全てのレースを1着で競争生活を終えているという、化け物のような馬です。種牡馬としても超が何個も付くくらいの活躍をしており、例えば今走っている馬を調べて血統を見てみると、ちょっとびっくりしてしまうくらいに「ディープインパクト」の名前が出てくる程のものとなっています。ディープインパクトのレースはどれも強いのですが、引退レースにして全く他を相手にしていない06年の有馬記念のレースを貼っておきます。


https://www.youtube.com/watch?v=m0W1hhEgJIY&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB


コントレイルはその数ある内の一頭であり、能力の高さから2020年のクラシックレースでは最初から注目を集めていました。コントレイルは無敗のまま皐月賞を勝利、日本ダービーを勝利、当然のように世間からは「親子二代での無敗三冠馬」の声が上がります。シンボリルドルフとトウカイテイオーも達成できなかった、いや、史上まだ達成されたことのない大いなる偉業。菊花賞にて、コントレイルはそれを見事達成してみせます。2020年当時、競馬の「け」の字すらも知らなかった自分にはおよそ届かなかったニュースですが、競馬の「ば」まで辿り着いた今、こんな最近に、こんなとんでもないことが起きていたんだと衝撃に感じました。競走馬の能力が高いのは前提として、関係者がそれをいかに高め、維持し、一番プレッシャーを直に受けるであろう騎手がレースで最高の乗り方をして、最高の結果を出す。ディープインパクトという偉業を残した馬の物語を受け継ぎ、さらに次なる偉業を世に送り出すということ。それは、並大抵の努力で出来ることではないでしょうし「親と子」のロマンに、強く強く夢を感じました。

コントレイルはその後勝ち切れないレースが続きます。「三冠馬」そして同時に「ディープインパクトという父親」のプレッシャーに晒され続けます。三冠馬になった故に、心無い言葉が投げられることもありました。しかし、先日ですが、引退レースとなったジャパンカップにて、コントレイルは見事勝利し、有終の美を飾って引退をしました。僕は2020年時のコントレイルのレースを生で見ていませんし、父親であるディープインパクトの現役時代も知りません。それなのに、そのジャパンカップでのコントレイルの勝利を見たら胸が熱くなって泣いてしまいそうになったし、今でもレースの映像を見るとグッと来ます。途中参加とはいえ、一頭の馬の「物語」に触れること、その面白さ奥深さ、それが僕をさらに競馬に夢中にさせたのでした。


今年の話になります。タイトルホルダーという馬が一つのレースに勝ちました。「タイトルを獲得するように」との思いを込めて名前を付けられたその馬の父親はドゥラメンテと言います。ドゥラメンテは2015年~2016年に活躍した競走馬で、ウマ娘にも登場しているキタサンブラックと同期の馬です。キタサンブラックは歌手の北島三郎の持ち馬として有名であり、またG1レースを7勝した時代を代表する名馬でもあります。キタサンブラックとドゥラメンテは2年程レースでぶつかったのですが、キタサンブラックは一度もドゥラメンテに先着することは叶いませんでした。ドゥラメンテは結果として故障によって早くに引退してしまうのですが、その後のキタサンブラックの活躍がドゥラメンテの価値を高めた部分もあり、もしドゥラメンテが無事に走っていればどうなっていたのかと語られたりもします。

タイトルホルダーはそんなドゥラメンテの産駒で、能力を評価されながらもクラシックレースでは勝てずにいました。皐月賞は惜しくも2着、日本ダービーでは6着、その後に出たセントライト記念というG2のレースでは13着と大敗してしまいます。最後の一冠である菊花賞を前にして、そんなタイトルホルダーに思わぬニュースが届きます。それは父親であるドゥラメンテの急死という訃報でした。引退して5年、馬として早い死はあまりに突然で、ファンにも強いショックを与えました。自ずと、注目はドゥラメンテの産駒であるタイトルホルダーに注がれました。菊花賞は、ドゥラメンテにとって因縁のあるレースだったからでした。クラシックレースにおいて、ドゥラメンテは皐月賞を勝ち、日本ダービーを勝ち、レースでの他の馬との差から三冠には高い期待が寄せられていました。しかし、ドゥラメンテはレースを前にして故障、出走は叶いませんでした。「もし」そう、もしタイトルホルダーが菊花賞に勝利することがあったら、それは父親が獲れなかった最後の一冠を息子が取るという話になり、父への手向けになるのではないか。そんなマンガみたいな出来過ぎた話、とは思いました。レースは「想い」だけで変わるものではないことくらいは、新参者の僕も分かっていました。でも、本当に「もし」そんなことが起こるのならば、それは「想い」の存在を思わざるを得ないかもしれない。当日、用事で見れなかった為、祈るような気持ちでレースの結果を待っていた僕は愕然としました。Twitterのタイムラインで流れてきたのは「タイトルホルダー 逃げ切り勝ち」の言葉でした。一番待っていた「もし」が目の前に広がるのを感じて、体が熱くなりました。外ではなく、一人で家でレースを見ていたら、おそらく僕は泣いていたかもしれません。この競馬という代物は、ときどき奇跡を起こすらしいのでした。


「競馬が人生の縮図なのではない、人生が、競馬の縮図なのだ」

競馬好きである歌人・寺山修司がこんな言葉を残しています。劇的な物事を指して、まるで人生のようだという意味で「人生の縮図」と表現することはよくありますが、寺山修司は競馬をその逆と評したのでした。競馬の中で起こることが、人生においても起こっている。そのくらいに競馬は劇的で、物語に満ちているのだと、寺山修司は言いたかったのではないかと思います。
一頭の馬だけを取り出して見ても、そこには馬ごとに色濃く、重厚なストーリーがあります。競馬を知り、競走馬を知ることで、僕はそれ等に幾度となく胸をときめかされ、感情を揺さぶられていきました。


ステイゴールドという競走馬がいました。
96年~01年にかけて長く走り続けた馬で、当時も今も根強くファンに愛されている名馬です。ステイゴールドは高い能力を持っていたのですが、何故か良いところで勝ちを逃してしまうところがあり、2歳でデビューしてから善戦はするものの、重賞(G1~G3など、格付けの高いとされるレース)を勝つことができず、初めてG2であるところの目黒記念を勝利したのは00年で、ステイゴールドは7歳になっていました。レース数で言うと、走るに走って38戦目でした。競走馬のデータでは、基本的に主な勝ち鞍(勝ったレース)が掲載されるのですが、目黒記念を勝つまではステイゴールドの勝ち鞍には「阿寒湖特別」という獲得賞金が1000万以下の馬限定のレースが載っており、その名前の響きから当時はネタにもされていたという話もあります。

念願の重賞制覇を成し遂げたステイゴールドでしたが、それでもG1だけにはどうしても手が届きませんでした。98年に関して言えば、天皇賞春、宝塚記念、天皇賞秋とG1レースを3戦連続で2着となっていたりと、やはり能力は高いものの、生まれ持っての気性の悪さからうまく走り切れないときがあったりで、なかなか勝ち切れない馬なのでした。同期はもちろん、自分より若い馬たちがレースを席巻するようになっても、ステイゴールドは勝てませんでした。それでも、ステイゴールドは走り続けました。まるで生き字引のように、ステイゴールドは数多くの名馬と闘い、その馬たちの歴史を見届けていきました。しかし、そんなステイゴールドも年齢を重ね、やがて引退が近づいてくる。「このままG1レースは勝てないのか」ステイゴールドを長く追いかけ、彼を愛したファンたちは、大きいレースで勝利するその姿を見ることを望みました。

2001年。ステイゴールドの最後のレースの地は海外でした。香港国際競争という、年末に香港で各国の競走馬を招いて開催されるレースの内の一つ、香港ヴァーズこそが、ステイゴールドの長い競走馬の最後となる引退レースでした。50戦。ステイゴールドが積み重ねた膨大なレースの、その最後がここなのでした。「無事是名馬」という言葉があります。競走馬には怪我が付き物で、能力があっても怪我で故障したり、若くして引退したりは本当にざらなのです。長い年数、第一線で無事に走り続けただけでも、ステイゴールドは十分に名馬と言えました。例えG1を獲れなくても、最後も無事に走り終えてくれたら、それだけで称賛に価するとも言えました。勝てなかったとしても、レースが終わったら「お疲れ様」と長い競走馬生活を終えた彼に声をかけよう、ファンはそう思ったかもしれません。そんな想いを人々が抱く中、ステイゴールドは50戦目にして、生涯最後のレースを走り出します。最後のコーナーを回り、ステイゴールドは4番手5番手あたり、先頭の馬まではかなり差がありました。直線に入って、ステイゴールドは加速します。4番手から3番手、3番手から2番手。残り200メートルほど、先頭までの差はまだありました。ステイゴールドの足はそこでさらに加速します。実況するアナウンサーは叫びます。「ステイゴールド!ステイゴールド!差し切れ!」残り100メートル、残り50メートル、ゴールが近づくごとにステイゴールドの体は、まるで羽根でも生えたように速くなります。そしてゴールする、その直前も直前、ステイゴールドは僅かに前の馬を抜き去り、先頭でゴールを駆け抜けました。5年、50戦。何度も何度も挑戦しては跳ね返され、手にすることが出来なかったG1の勝利を、ステイゴールドは最後の最後に手に入れたのでした。香港ヴァーズでの、現地でのステイゴールドの表記は「黄金旅程」まるでその長い旅路を讃えるかのような、その最後が輝くことが最初から決まっていたかのような言葉は、あまりに出来過ぎてはいませんでしょうか。馬の想いは分かりません、確かに語れるのは人の想いだけに過ぎません。けれど、長く走り続けた一頭の馬の最後の輝きには、人生よりも強い人生を感じてやまないのでした。


実際のレースも貼りますので、興味ある方は是非観てみて下さい。最後の直線での攻防は、競馬をよく分からなくてもアツいと思えるほど激しいものだですし、ステイゴールドの背景を知った上で観るとよりグッと来るかと思います。

余談ですが、ステイゴールドは種牡馬としても大活躍をしました。稀代の癖馬としてG1の勝利と共にその頭のおかしいエピソードでも語られるゴールドシップ、三冠馬として凱旋門賞で2年連続で2着になったオルフェーヴル、障害物を越えていく障害レースにて初の同一G1レース5連覇という偉業を成し遂げたオジュウチョウサンなど、歴史に名を刻む名馬を数多く輩出したのでした。ステイゴールドは生まれ持っての気性の悪さも特徴的だったのですが、能力の高さはもちろん、それもちゃんと子供に受け継いでいるのが、また面白いところでもあります。種牡馬として良い馬を回してもらえるかどうかは、現役時での活躍がかなり影響してくる為、あるいは最後のレースでのステイゴールドの激走が無かったら、競馬の歴史は変わっていたかもしれません。


このように、競走馬一頭ごとに物語があり、知れば知るほど僕は競馬にハマっていきました。思えば、僕が他の趣味であるMCバトルを好きになってきっけも、ラッパーの一人一人の背景や関係性などに強く惹かれたことが大きく、競馬のことを色々調べながら「この感じ、知っているかもしれない」と思った瞬間もありました。人生を感じるような、あるいは超えてくるような馬たちの物語に触れることで「ギャンブルの一つ」でしかなかった競馬が、僕の中で「壮大な物語の連なり」に変わっていったのでした。

他にもたくさん紹介したい馬はいるのですが、挙げだすと本当にキリが無いので、特に好きな馬の話を最後にもう一つだけします。僕が最初に強く好きになった馬の話です。その馬は、メジロパーマーと言います。

メジロパーマーは89年~94年にかけて活躍した競走馬で、メジロ牧場という、名馬を多く送り出した牧場で生まれました。競走馬の名前を見ていくと、同じ単語が付いている馬が何頭もいることに気付くと思うのですが、これは冠名と言って、同じ牧場や馬主が扱っている馬に付けられるものです。メジロ牧場で言うと、メジロマックイーンメジロライアンのように、頭にメジロが付いています。また、その年ごとにコンセプトを付けて名前を付けるのもメジロ牧場の特徴で、例えばメジロマックイーン、メジロライアン、そしてメジロパーマーは同期で、いずれも海外の人物から名前が取られています(それぞれ、俳優スティーブ・マックイーン、メジャーリーガーのノーラン・ライアン、プロゴルファーのアーノルド・パーマー)メジロ牧場は今は無くなっているのですが、いわば昔からの「名門」であり、G1馬を長く出してきました。

メジロパーマーは同期の中でも全く期待をされていませんでした。メジロマックイーンとメジロライアンがG1レースで鎬を削る中、メジロパーマーはなかなかレースに勝てず、障害レースに転向をさせられ、そこでも上手くいかずまた平地のレースに戻り、重賞を勝って復調を見せたかと思いきや大敗、また障害レースを走らされます。エリートの一家に産まれながら、華やかな舞台からは遠ざかり、同期との差は離れる一方。メジロパーマーはG1勝利はおろか、そこに立つことすら叶わない日々を送ります。転機が訪れたのは92年、メジロパーマーが6歳になったときでした。そのときにはメジロライアンは宝塚記念、メジロマックイーンは天皇賞春と、同期は既に輝かしいタイトルを獲得していました。当時、障害レースから再び平地に戻されたメジロパーマーは、新しい騎手・山田泰誠と出会います。彼が、その後のメジロパーマーの競走馬人生を大きく変えるのでした。

競走馬には「脚質」と呼ばれるものがあります。これはそれぞれの馬が得意としている走り方を指し、大きく分けて「逃げ」「先攻」「差し」「追い込み」の4つがあるとされます。「逃げ」はレースが始まってから先頭を走ってそのまま逃げ切る方法。「先攻」は終始、先頭集団にいて最後に抜け出す方法。「差し」は先攻より後ろめにいて体力を温存し、最後一気に抜き去る方法。「追い込み」はさらに最後方のほうからスパートをかけて全てを抜き去る方法。一般的には「先攻」「差し」が勝つレースが多く、高いスタミナが要求される「逃げ」や、パワーが要求される「追い込み」で何勝もする馬はあまりいないとされています。山田騎手がメジロパーマーに見出した走り方は「逃げ」をさらに特化した、レース開始時から後ろの馬に大きく差をつける「大逃げ」でした。

大逃げを覚えたメジロパーマーは92年5月、G3レースである新潟大賞典を勝利し、その勢いで宝塚記念に出走します。宝塚記念は人気投票で選ばれた上位の馬が出走するレースで、年末に同じ形式で行われる有馬記念と合わせてグランプリレースと言われています。G1のタイトルを持っている馬が数多く出走するため、それぞれ上半期下半期の一位を決めるレースといっても過言ではありません。92年の宝塚記念、メジロパーマーは13頭中の9番人気でした。障害レースから戻ったばかりの、G1も獲っていないメジロパーマーが期待されないのも、当然と言えば当然でした。おそらく、ほとんどメジロパーマーが勝つと思っていた人はいませんでした。しかし、このレースでも大逃げを決めたメジロパーマーは最後まで先頭を守り切ると、見事勝利を飾りました。6歳にして、初のG1制覇でした。先ほど誰もメジロパーマーが勝つと思っていなかったと言いましたが、それは何と関係者も同様でした。元々、メジロマックイーンが出走予定だったのが怪我で出走できなくなった為、メジロ牧場から応援に来る予定の関係者がほとんど競馬場におらず、本来なら馬主を含めて行う記念撮影も、馬主なしで行うという珍事になったのです。メジロ牧場に見守れなかったメジロパーマーのG1初勝利は、快挙であると同時に、少しの苦みも伴うものでした。


メジロパーマーはその後、G2レース京都大賞典を9着、G1レース天皇賞秋を17着と、G1初制覇後のレースを散々な成績で終えます。宝塚記念はただのフロックだったのではないか?という声も挙がり始めます。そして時は流れて年末、有馬記念。ここにも出走してきたメジロパーマーは16頭中の15番人気。宝塚記念の勝利はもう忘れられてしまったのではと思うくらいの低人気でした。1番人気は秋にジャパンカップを勝っているトウカイテイオー。たった1回まぐれが起きただけ、二度もそれは起こらない。ここでもメジロパーマーの勝利を想像した人は、ほとんどいませんでした。メジロパーマーは、有馬記念でも大逃げを決めました。後ろの馬が見えなくなるくらいの差を付けて、同じく逃げの馬であるダイタクヘリオスと共に逃げて逃げまくります。最後のコーナーをメジロパーマーが先頭で回ってきたとき、場内は大きくどよめきました。メジロパーマーと後ろの馬の差は、まだ相当に離れていたからでした。ゴール前の直線、ようやく他の馬が追い付いてくるのを、メジロパーマーは強いスタミナを持って制します。有馬記念のゴールを最初に駆け抜けたのは、他でもない15番人気のメジロパーマーでした。宝塚記念と有馬記念、両グランプリを連覇したのは当時4頭目の快挙であり、それはメジロ牧場のどの馬も成し遂げたことがない偉業でした。まぐれでもなんでもない、メジロパーマーは自身が本当に強い馬であることを、勝利をもって証明したのでした。


僕はこのレースが競馬史上でも一番くらいに好きなのですが、何度見ても最終コーナーをメジロパーマーが回ってたときの会場の割れんばかりのどよめきと、焦ったような実況が「大波乱」を感じさせて震えます。名家に産まれながら、競馬ファンからも関係者からも、まるで期待されずに走ってきた馬が大番狂わせを食らわせる瞬間。「雑草魂」という言葉がありますが、メジロ牧場の隅の、光の当たらない日陰で力強く育ってきたその雑草が、最後に大輪の花を咲かせたともいうべきメジロパーマーの一生には、強く勇気を貰えるのでした。

メジロパーマーを語るとき、一般にはこの有馬記念がキャリアハイとされますし、実際その後メジロパーマーがG1に届くことはありませんでした。翌93年、G2レースの阪神大賞典をまた逃げ切ったあと、メジロパーマーは天皇賞春に出走します。93年の天皇賞春というと、メジロマックイーンが前人未到の3連覇を賭けて臨んだレースであり、それを記録ストッパーとして有名だったライスシャワーが止めたレースとして語り継がれています。このレースでもメジロパーマーは大逃げを決め、最後のコーナーまでは先頭を保つのですが、メジロマックイーンに、それをマークしていたライスシャワーの二頭に交わされて3着に終わります。92年に勝った宝塚記念にも有馬記念にも、怪我でメジロマックイーンは出走していませんでした。同期のスターに、結局メジロパーマーは先着することができなかったのでした。仮にメジロマックイーンが出ていたとしても勝っていただろうと思われるくらい、宝塚と有馬のメジロパーマーは強かったですし、この天皇賞春はレースの中でも距離の長い3200mの長距離と言われるコース、それを最後まで逃げて、粘って3着に食い込んでる段階でもメジロパーマーの強さは相当なものです。けれど、グランプリを勝っても終ぞ1番人気になることがなかったメジロパーマーの一生を思うと、もしこのレースで勝っていたらもっと評価も変わっていたのかなと考えてしまいます。僕にとって93年の天皇賞春の主人公は、だからメジロパーマーと言えるのでした。



長々と書いてしまって申し訳なくなってきました。まだまだ紹介したい馬は山ほどいます。晩年に覚醒し、ディープインパクトに国内で唯一勝った馬ハーツクライの産駒であり、同じく晩年に覚醒して1年で最強まで登り詰めて引退した牝馬リスグラシューや、体の弱さから他の馬なら引退してしまうくらいの怪我にも見舞われながら、6歳にして復活、同期であり最強馬と名高いナリタブライアンを打ち破ったサクラローレル、ウマ娘のアニメの主人公でもある名馬スペシャルウィークの産駒で、アイドルホースとして1番人気を背負って走り続けてG1を6勝するも、グランプリだけはどうしても取れず、最後の有馬記念後の引退式で涙を流したとされるブエナビスタなど、僕が好きで紹介したい馬はたくさんいるのですが、長くなってきたのでここでは止めておきます。本当に、馬ごとに色濃いストーリーがあり、それはまさに「人生が競馬の縮図」と思ってしまうような、そんな美しさを感じてしまいます。いや、あるいは本当にそうなのかもしれません。

今年一年に関しては、ほぼリアルタイムでレースを見守ってきました。3歳世代によるクラシックレースや、古馬(4歳以上の馬を指します)同士の激戦、あるいは3歳世代と古馬の対決。そのどれもが胸を熱くするもので、前から競馬を知っている人らをして「今年ハマった人は幸運」と言わせるほど、今年のレースは面白いものでした。あまり競馬を知らない人でも、牝馬ソダシが白毛の馬として初のG1制覇を成し遂げ、アイドル人気を得たのは知っているかもしれません。上で挙げましたが、コントレイルが有終の美を飾り、また、同じくグランアレグリアというディープインパクトの産駒で短距離や、それより長いマイルと呼ばれる距離で絶対的な強さを誇っていた牝馬も引退を勝利で飾りました。最初から追っていない馬であるのに、途中からそのページを捲っていただけなのに、その最後の瞬間には胸が熱くなりました。僕が競馬について知っているのは、ほとんどが文字の情報と、過去の映像だけでした。いわば歴史の教科書や偉人が残した伝記を、ただ捲っているだけに過ぎませんでした。今年から走り始めた馬に関しては、その最初のページを自分は知っていて、そのシーンに自分は立ち会っていて、来年以降、まるで我が子の成長をカメラで追うように、写真をアルバムに綴じていくように、自分は歴史を見守っていける。最後までを知ることが出来る。ほぼ一年レースを見終わった今、僕は楽しみでなりません。

去年の今頃、僕は一年後にこれほど自分が競馬に熱くなっているとは想像もできなかったと思います。競馬は自分とは関係のない、一つのギャンブルであり、自分とは関係のない人たち、多分に偏見が入っていますが、自分より上の世代のおじさんたちが熱中しているものという認識しかありませんでした。この10ヵ月ほどで、それらは全て崩れ去り、僕の足は先月、東京競馬場に向かっていました。生まれて初めて、競馬場に行ったのでした。同じように最近競馬にハマった友達と、生で馬券を買ってレースを見て、あれはめちゃくちゃ楽しかったです。自分のイメージの中にあった競馬場のイメージも覆されました、そこにあったのは一つのアミューズメント施設でした。まさか自分が35、僕は今年で35歳になるのですが、35歳になって競馬場を楽しむことになるとは、自分のことなのに改めてびっくりしてしまいます。誰が言ったか、何かを始めるに遅すぎることなどはない、とはよく言いますけれど、大人になっても、おじさんになっても、楽しめることは増えていくのだなと自分を見て思いました。

余談かもしれませんが、僕はあまり馬券を買いません。あまり自分がギャンブルと相性が良くない(やり出すと破滅してしまう不安がある為)というのもありますが、大きい理由としては「馬を好きになり過ぎてしまった」というのがあります。好きな馬がそのまま勝つとは限りませんし、好きになった馬にもよりますが、好きな馬がいつも本命になるわけもありません。真剣に馬券を買って収支を上げようとするならば、そこは当然切り捨てる必要が出てきます。僕は、勝つならば好きな馬の馬券を買って勝ちたい、けれどそれはギャンブルとしてはあまりにリスキーです。競馬について語れるほど知った身ではありませんが、馬券を頑張るならば馬を好き過ぎないようにするのも、一つあるのかもしれません。語弊のないよう言っておきますが、ギャンブルとしての競馬を否定してるとかでは無いですし、馬が好きなのはみんな同じというのは本当にそうだと思います。あと、好きなコンテンツにはお金を落として還元するのも大事だと思うので、買うときはちゃんと買って、競馬にはお金を落としていこうと思っています。勝ったら、嬉しいですし…。


本当に長距離の記事になってしまいました。僕のスタミナもそろそろ切れそうなので、このあたりで締めたいと思います。本当に、自分がこんなに競馬を、馬を好きになって、その文章をこんなに書けるようになるとはと今も思っています。最初の目的として、競馬を知らない人に競馬の魅力を、というのを掲げたつもりが、果たしてこんな冗長な文章を興味のない人が読むのか?というと、甚だ疑問ではあります。読んで頂けたのなら、本当に嬉しいです。念を押すわけじゃないですが、これはあくまで僕の競馬の楽しみ方であり、僕の思う競馬の魅力です。何の趣味にしてもそうですが、楽しみ方は人の数あります。とりあえずこの記事においては、競馬における物語性、競走馬のドラマについて少しでも伝わればと思います。もし共感して頂けたのなら、一緒に競馬を楽しんでいきましょう。一緒に、ターフ=芝に夢を見ていきましょう。よろしくお願い致します。


お付き合い頂き、ありがとうございました!

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