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東の脳へ 2 

長編小説「東の脳へ」を4回ほどに分けてお送りいたします。
最後までお付き合いいただければ幸いです。

~あらすじ~
左脳の機能を劇的に向上させる薬、プラグマティズム・ブースターが世界中に広まった。日本の教育にも活用され始めるという時、科学者を辞めたばかりの周防諒は不安と罪悪感に苛まれていた。同時期に大学受験を控えていた男子高校生、中里知樹は周囲から勧められ、薬を飲む。親友の同級生、北倉浩平は飲まないという選択をした。
プラグマティズム・ブースターによって、三人の運命は大きく変わっていく。右脳という東の脳へ、現実は移行していく。


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腰を屈めて、小さい入り口を潜る。軋む腰や膝を少し気にしながら、なんとか狭い和室に入った。

目の前の掛け軸には、雄大なモノクロの山河。上から下に目線を動かせば、茶花に目を奪われる。丸いフォルムが特徴的な、小さい晩夏の花。前回も夏の終わりに訪れた。その時にも、この花が飾られていた気がする。

確か、千日紅せんにちこうといったか。白とオレンジの球体の花が、緑の葉と茎が重なる背景に映えている。ぼんやりと見つめていると、美しいという最初の印象が崩れ、おどろおどろしい印象が強くなった。

オレンジ色がいけない。あの薬と同じような、赤みを帯びたオレンジ色のせいだ。

「客人が座らないと、私が座れないのだが」

先生の低い声が至近距離から聞こえ、驚く。横には、もう先生が茶道具を抱えて立っていた。数年前の夏に最後に会った時と同じ、中央で分けた前髪。少しこけた頬。鷹のような鋭い眼光。変わったのは、涼しげな着物の藍色と、前髪に増えた白髪だけだった。

「あ、先生。すみません。先週突然電話したのに、こんな本格的な茶会の準備をしていただいて。お変わりない様子で、安心しました」

その場に正座しながら、挨拶をする。しかし先生は私に一瞥もくれず、正座して茶道具を静かに並べ始めた。

節くれだった先生の長い指が、茶道具を丁寧に拭き清めていく。眺めていると、ついさっき千日紅から生まれた恐ろしいイメージが薄れていった。

開け放たれた、大きな丸い障子窓から入ってくる風が、私と先生の間を通り過ぎる。窓の奥には、先生の庭。波紋のような枯山水の周囲を、様々な野花が囲んでいる。

広いとは言えない庭だが、宇宙のような、果てない空間のように感じられる。庭に見とれていると、茶筅ちゃせんで抹茶と空気を混ぜるリズミカルな音が聞こえてきた。

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