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十二国記30周年によせて

自分に最も影響を与えた本は何か、と聞かれても、とても一冊に絞ることはできないが、複数上げるならと考えてみると必ず『十二国記』は入るだろう。

『十二国記』と『銀河英雄伝説』

小野不由美先生が『銀河英雄伝説』シリーズから『十二国記』の着想を得たことは、賢明なる読者諸兄はすでにご存じのことと思うが、私の周りには両方のシリーズを読んだファンがほとんどいないため、とても寂しい。『十二国記』は読んでいても、『銀河英雄伝説』を知っている人があまりにも少ないのである。残念でならない。しかしかくいう私も『十二国記』を読破した後に『十二国記』について調べていて偶然、なにやら『銀河英雄伝説』が『十二国記』を書いたきっかけのシリーズらしいと知り、それならと『銀河英雄伝説』を読んだのであった。折しも創元SF文庫で新版の刊行が始まっていて運が良かった。読んで世紀の傑作であると感銘を受け、石黒昇監督のアニメ本伝・外伝ともに全て視聴し、小野不由美先生が解説を書いているという徳間文庫版『銀河英雄伝説』第9巻も買い求めて(絶版だったため入手は困難を極めた)解説をむさぼり読んだ。この解説に『銀河英雄伝説』から『十二国記』の着想を得たことが示唆されている。そして『十二国記』の王と麒麟のシステムを構築するための重要な発言を某ミステリ作家がするのである。私はこの某ミステリ作家は綾辻行人ではないかと睨んでいたのだが、先日綾辻先生のTwitterでそれを認める発言を発見して膝を打った。綾辻先生の純粋かつ愉快なこの発言がなかったら『十二国記』は世に生み出されなかったと考えると感謝の涙が流れるほどだ。

麒麟システム

あらためて『銀河英雄伝説』から『十二国記』を考えるとき、麒麟の存在はそれぞれの王にとってのキルヒアイスであり、フロイライン・マリーンドルフであり、ユリアンであり、フレデリカであり…と考えながら、王と麒麟のシステムの合理に納得するのである。麒麟が仁道の生き物であり、その発言と行動の根幹には仁道がある。そうはっきりしているのが上手い。現実では誰がどの立場でどのような考えに基づいて発言し行動しているかは自分で判断するしかない。しかし、麒麟は決まっているのである。わかりやすい。延王の言う通り、麒麟の言うことだけに従っていては国は治められない。しかし仁道をもって国を治めなければいけないのも道理である。その辺のバランスを考えつつ、麒麟の言うことに従いつつ、従わないこともありつつ、国を治めていく。そして麒麟は仁道の生き物だが王の命令には逆らえない。離反して反乱を起こしたりしないのである。唯一、安心して隣に置いておける配下なのである。そこには小野不由美先生の一人で国を治めることはできないという考えが見える。その最初の二人三脚の相手が最初から用意されている。実にシステマティックだ。
さらにシステマティックなのは、銀河英雄伝説で指摘されていた専制君主制の数々の問題点を完全にクリアしていることだ。有能な君主がいても、変節する可能性があること、優れた君主もいつか死ぬ、その次代が優れた君主ではない可能性があること、有能な、優れた君主であるという「保証」がないこと。それを麒麟システムですべて解決してしまっているのだ。麒麟に選ばれることで君主たる資格と命を保証し、その王たる資格がなくなった時には天が王の命を奪う。次代の君主も麒麟が選ぶことによってその資質を保証する。常に最良の君主をいただくことのできる、非常に合理的な専制君主制なのだ。『銀河英雄伝説』の作中で専制君主制のこれらの問題点を指摘したヤン提督は、このシステムをどう評価するだろう。やれやれ、そんなこと現実じゃありえないじゃないか、と頭を掻いてごまかされるだろうか。
翻って現実を考えると、そのような合理的なシステムはないのであって、やはりヤン提督の信念たる「最良の専制政治より最悪の民主政治の方が勝っている」というのが小野不由美先生の回答なのではないかと思うのであった。

最後に

とここまで書いてきて、私が言いたいことはすでにお分かりのことと思う。『十二国記を読んでいてまだ『銀河英雄伝説』を読んでいない人は、ぜひ『銀河英雄伝説』をご一読ください。

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