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陰陽師安倍泰親という人物

閲覧いただきありがとうございます。
今回noteにて記事を投稿する行為が初めてで、拙いもので大変恐縮ではありますが最後まで見ていただけますと幸いです。

さてこの記事をお読みの方はきっと、「安倍泰親」という人物に興味をお示しのことと存じます。またおそらく私以上にご存じの方は数多いることでしょう。ならばなぜ私がこの記事を残そうと思ったのか。
答えは単純で、今後の研究に活用するためと趣味で創作をされる方にもお役立ていただける情報として残しておきたいと思った次第です。ですのでこれから陰陽師ものをお書きになりたい方に向けた院政期陰陽師知識などもこの「陰陽師安倍泰親」の記事を通して少しずつ載せていければと思いますので、長い目で更新を見守っていただければと思います。(とはいえ陰陽道好きに過ぎませんのであしからず)
今回注釈・付記に際し「*番号」を振らせていただきました。

今回初投稿するものは「陰陽師安倍泰親」の簡易的な紹介となります。

1,安倍泰親とは

一般的周知部分

まず安倍泰親について大まかにどういった人物なのかご紹介いたします。

安倍泰親
安倍晴明の五代目の子孫*¹
1110年(天永元年)月日不明~寿永2年3月20日*²
鳥羽法皇の御世にて誕生。
数え年12歳の時、父安倍泰永(治暦4年~保安2年享年54歳、最高官職:陰陽頭)が卒去する事態となる。その後兄安倍政文(応徳2年*³?~天治元年、最高官職:陰陽博士*⁴)が時親流*⁵の後継者となるが3年後に急逝する。この時泰親は15歳であった。
幼少期の詳細な記録はいまだ見つかっていないが、15歳になると朝廷が安倍氏嫡流断絶を危惧し泰親に後見人をつける。これがのちに因縁相手ともなる安倍晴道*⁶(改名前:兼時)だ。
この時安倍家は3流*⁷に分かれており、安倍時親・安倍奉親・安倍国時の子孫が残っている。
その中でも時親が長子であったため時親流が嫡流筋としてすでに認知されていた。同時代の安倍庶流の人物は奉親流子孫安倍宗明(生年不明~長承2年出家*⁸、最高官職:天文博士)息安倍広賢(嘉承2年~応保2年、最高官職:天文博士)と国時流子孫安倍兼吉(生没年不明、最高官職:陰陽充)息安倍晴道が存命である。
晴道は泰親に陰陽道を伝授し、のち元服の折「泰親」と諱を与えた。それからの記録もいまだ見つかっていないが、泰親として初出がみられるのは大治5年8月23日、小除目にて京職の一つである右京亮とされている。
この時泰親は21歳であった。*⁹
彼は若いうちから占に長け、鳥羽法皇や佐府頼長にも重用されていた。のち後白河法皇からも重用され、幾度も泰山府君祭を行っている。
しかし院政期~鎌倉初期では陰陽頭に安倍一族が叙されたのは父安倍泰長以降はなく、その間賀茂氏が占めており泰親が陰陽頭に叙されたのはそれから50年近く先となる。
泰親が陰陽頭に叙されるのは養和2年4月のことで、およそ1年ほど任官後寿永2年3月20日に没している。法名は念佛。


追記

安倍泰親が生きていた時代である院政期では、安倍晴明が生きていた頃よりさらに貴族側での需要が高まり、陰陽師が興隆していた。
また当時安倍晴明選「占事略决」の写本が源師時(承暦元年~保延2年4月6日)により鳥羽法皇に献上されていることから、すでに安倍氏の知名度は高かったものとみられる。
しかしここで注意したいのは、あくまで院政期以降でありそれまでは賀茂氏が陰陽家として名が知られていた。
例を挙げるとすれば、藤原明衡(永祚元年~治暦2年)著「新猿楽記」に登場する賀茂道世だろうか。
実際は存在しないとされているが「同時代にいた賀茂氏」のモデルと当時の世情が大きく反映されているこの書のことを鑑みても平安時代後期までは賀茂氏が陰陽家として広く知られていたことになる。
とはいえ安倍氏もそれなりに知られていたのは事実で談話集「江談抄」を見るに、安倍吉平の記述がみられる点は無視し難い。おそらく安倍氏の知名度転換期は院政期と推測してよいだろう。その一端を担っていたのが占事略决であり、この頃は占に対する貴族側の関心の高まりも関連していると考えられる。

2,安倍泰親の人物像

上記は某大事典にも記されていることですので、興味のある方はご存じのことだったかもしれません。それでは次に安倍泰親がどういった人物であったのかご紹介いたします。
この記事をお読みの方は、安倍泰親についてどういったイメージをお持ちでしょうか。陰陽師といえば「正義」「ヒーロー」、もしくは戦前のイメージとしてあった「悪」「敵」「ボス」などでしょうか。
その中で彼のもっともイメージとして近しいのは「正義」ではないかと思われます。その起因が泰親を語る上で外せない「玉藻前伝説*¹⁰」ですね。江戸期では歌舞伎も流行り一大的流行を見せたと言われています。
その玉藻前伝説ですが、安倍泰親が成したことは何といっても術を使って妖狐玉藻前の正体を見破ったことです。それをきっかけに武士が討伐する…大まかにいえばそういったお話です。もちろん江戸期にはほかに複数の玉藻前伝説が存在しますが、このお話がポピュラーでしょう。
しかしこれはあくまで伝説にすぎません。
実際の泰親は、安倍晴明公を尊敬しまた退潮していく安倍時親流の再興に奮闘する人でした。上記の紹介文をお読みいただければ幼少期に苦労していたことは一目瞭然です。賀茂氏の絶大なる影響下で祖父有行や父泰長は徐々に陰陽安倍家としての名声を上げていましたが、双方とも早世により断絶の危機を迎えていたのです。そのため様々な手を尽くし、晴れて自分の子息らに自分が任官していた官職を分け与えること(譲任)にまで大成したのです。ただそれまでの過程が中々過激だったためか、称賛する人たちが多い中でも型破りなことをしていたせいか批判する人たちも多くいました。例えを上げますと故実主義であった九条兼実や藤原経房らが批判しています。とりわけ九条兼実は泰親・泰茂父子を重用していたのですが、それでも泰親の行動は相当目に余るものだったのでしょう。
また泰親はほかの人たちの失脚・占文などを持ち出しては批判・争論を度々起こしていました。それは一族外に留まらず泰親息季弘や庶流派にまで波及しています。この行動には理由があり、庶流派への口撃は当時の「家」問題にも関連しているようです。あまり中世の「家」問題については多く語れませんが、当時2つの継承方法があったようで「一門一家*¹¹」と「嫡継承*¹²」が併存していました。泰親はどうやら、嫡継承を重んじていた傾向がありそのため庶流派への当たりも強かったとみられています。次に嫡息季弘については、これにも理由があり度々泰親に異議を唱え時親流嫡流の輪を乱す原因にもなっていました。例を挙げますと治承元年~翌二年にかけて出現した彗星に対し泰親が彗星と判断していたことを息季弘は「彗星に非ず」と意見を二分させてしまったのです。また治承四年八月に行われた福原遷都・内裏造営の方角禁忌について陰陽道に諮問が下された際も泰親の勘申に対し季弘が反対し、これにはさすがの泰親も「汝受誰人訓説仕公哉、太奇怪也云々*¹³」と激怒しています。この後息季弘は沈黙し泰親の申状に随うことを申し出ますが泰親はさらに怠状を求めました。こうしてみると泰親は、家父長としての威厳・さらには「家」を重んじ、安倍時親流を再興するためには手段を選んでいないのです。強いて言えば自信家で妥協を知らない・攻撃的な性格だったと言ってもいいでしょう。または彼が背負っていた重責がそうさせていたのか。
その一方でこういった面以外にも泰親は持ち合わせていたようで、先にも述べたように安倍晴明公を尊敬していたことも事実でした。とある一面をご紹介いたします。久寿2年7月26日天変が起きたため藤原頼長は泰親の許に使者を送っています。その際に彼が頼長の使者に返答したことは、安倍晴明を真似たのか地に降り立つと天を仰ぎ見るという芝居がかったことを行い、頼長の使者に返答したのです。翌日頼長にも伝えているのでしょう「天子悪、母子悪」という重事を勘申しています*¹⁴。
また晩年では治承3年11月7日戌刻にこれまでに比類なき大地震が起きました。翌早朝泰親は慌てて院御所に馳せ参じ、占文を奏上しています。すると後白河法皇が重ねて問うと、なんと涙をはらはら流しながら再び奏上したのです。これには同席していた高倉天皇や古参の公卿は驚き、若い公卿は嘲笑したとされています*¹⁵。しかしこの7日後に治承3年の政変といわれる、清盛によるクーデターが起きるのです。これに際し後白河法皇も幽閉の身となります。もしかしたら近侍していた後白河法皇に対する涙だったのかもしれません。こういった人間臭いところを見ると、彼も鬼ではなく人の子であり時代に翻弄された一人だったということですね。

終わりに

今回は「陰陽師安倍泰親」という人物の簡単な説明をさせていただきました。次回も更新する予定ではありますがいつ頃などは未定です。まず調べることがまだまだ山のようにあり且つ調べ直しなども発生しているためです。ですがこの初投稿の記事で安倍泰親という人物がどのような人であったのかを少しでもご理解いただけましたら作者冥利に尽きる次第。
ちなみに次回予定としましては、まず把握している分の官歴紹介、並びに安倍泰親と安倍晴道による長承元年五月十五日条に起きた「安倍晴明旧宅地沽却事」によって安倍泰親流の勃興(と言っていいのかは難しいですが)・貴族から見た評価・家族構成などのお話ができればと思います。

参考文献

鎌倉期官人陰陽師の研究(赤澤 春彦 吉川弘文館)
平安時代陰陽道史研究(山下 克明 思文閣出版)
新陰陽道叢書 特論(林 享編 名著出版)
新陰陽道叢書 中世(赤澤春彦編 名著出版)
陰陽道関係資料(高田 義人・託間直樹編著 汲古書院)
平安時代史事典本編上(角田 文衛監修 〔財〕古代学協会・古代学研究編 角川書店)
続群書類従第七輯 系図部(東京続群書類従完成會 八木書店)
玉葉(九条兼実著 名著刊行会)
増補史料大成台記(藤原頼長著 臨川書店)
増補史料大成長秋記(源師時著 臨川書店)
江談抄(大江匡房著 国文学資料館蔵 ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター
新猿楽記(藤原明衡著 国文学資料館蔵 ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター
年号一覧表(http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengoui.html

注釈・付記

¹ 一般的周知では吉平ー時親ー有行ー泰長ー泰親として「安倍泰親晴明5代目の孫」と考えられているが、3年ほど家督を継いだ安倍政文の扱いはどうなるのだろうか。現在山下氏による「上臈論」や繁田氏による「陰陽道第一者論」が挙げられるが、彼らの説に当てはめると政文はいなかったものとして扱われる。しかしこれには疑問に感じる点があり、まず何故政文を省いてしまったのか。もちろん古記録上で政文が活躍する場面は少ないが、それでも政文は嫡流筋の長子であり家督も継ぎ長治2年2月1日小除目にて陰陽博士にも叙されている。もう少し検討の余地はあってもいいかと思われる。

² 生年は若杉家文書小反閇作法并護身法奧書。没年・法名は安倍氏系図・尊卑分脈・群書類従。

³ 通説である39歳で卒去したと仮定し、天治元年より逆算した年が応徳2年となる。

⁴ 「鎌倉期官人陰陽師の研究(赤澤 春彦 著)」では政文の項目には、陰陽博士とだけ記されているが、続群書類従・翻刻版安倍氏系図には天文博士も記されておりまた翻刻版安倍氏系図には権陰陽博士ともあるためここに付記する。(権官については少々怪しいものだが)

⁵ 時親流については安倍晴明息吉平の実子に当たり、その長子として誕生している。ほかに兄弟は安倍国時(入道円弼)・章親・平筧・奉親とおり奉親は吉昌子と続群書類従には付されている。
また国時は安倍晴明の弟子が認められ安倍氏一族に迎え入れられたのではないかと言われている。(諸説あり)

⁶ 安倍晴道(嘉保元年~仁平3年3月1日 59歳)は晴道党の祖とされる。なぜ後世鎌倉に移住した庶流派晴道党陰陽師の「晴道党」と称すかについては諸説あるが、始祖国時が安倍晴明弟子で最も晴明に近くまたその血を引く晴道は安倍泰親の後見人であったためとされ、一時期貴族側で安倍氏長者とも認知されていたことから端を発している恐れがある。

⁷ 通説では院政期に存在していた3流は「宗明流(奉親流)・晴道党(国時流)・泰親流(時親流)」とされている。それ以前だと平筧流・章親流も存在していたが断絶したとされる。

⁸ 安倍宗明 出家の出典は「鎌倉期官人陰陽師の研究」。

⁹ 官職の初出は長秋記。

¹⁰ 玉藻前伝説については、室町期にはその原型が(御伽草紙・神明鏡・能「殺生石」)すでに見られ江戸期では一大流行を見せた。安倍泰親のほかに、安倍晴明・安倍泰成であったという説話も残されている。

¹¹ ¹² 新陰陽道 特論より赤澤氏が参考とした典籍は「高橋秀樹著日本中世の家と親族」としている。

¹³ 「汝受誰人訓説仕公哉、太奇怪也云々」は新陰陽道叢書 特論より。元は玉葉「治承四年八月二十九日条」引用

¹⁴ 「天子悪、母子悪」は新陰陽道叢書 特論より。元は台記「久寿二年七月二六、七日条」より引用。

¹⁵ 治承3年の政変の七日前の大地震の事。について、これは「延慶本 平家物語」や実際に玉葉にて「治承三年十一月七日辛酉、天晴、此日臨時七社奉幣云々、殿上人爲使、依梅宮祭奉幣如例、陪膳行賴、奉行定成、陰陽師有親(泰親)、亥刻、大地震無比類」とも記されている。

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