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EX1話:『企業戦士 東野』07


 夜の森の狭間を滔々とうねる大河のようなオーケストラ。

 

 瞑目して曲が織り成す世界に没頭していた源田社長は、ゆっくりと眼を開いた。四分近く続いたペールギュントの『朝』の演奏が終わりに近づいてくる。

 午前中の激務に続くハードな交渉相手とのビジネスランチで消耗した心身を、クラシックは染み渡るように癒してくれた。充分な休息。だが、いつまでもぐうたらしているわけにはいかない。

 休息を終え、勤勉な実業家としての源田社長の本分がむくむくと目を覚ましはじめた。……いつまでも、こんなのんびりしている曲を聞いているわけにはいかないな。

 と、『朝』が終了する。次に来る曲はまたスローテンポか、と思ったら、なんとアップテンポのワルツ第六番『子犬』だった。

 驚いて横を見やると、ディスプレイの前で改心の笑みを浮かべる兵頭亜紀と眼が合った。

「社長が休息を終えて、活動を始めようとしているのを、この『カペラ』が読み取ったんです。そして、次の曲にはアップテンポな『子犬』を選曲したのでしょう。テンションが高まるように」

 今日の亜紀はいかにも技術者然とした、白衣にメガネのスタイルである。社長の前で口調が改まっていることもあり、普段とは別人としか思えない。

「……なるほど。裏面に仕掛けてあるセンサーでこちらの体調を読み取って、曲調や音質からある程度曲の『雰囲気』をプログラムが類推してくれるわけか。でもこれ、出来ればPCに接続して自分で編集してみたいところだな」

 いつぞやのゲンキョウ社大会議室。源田社長が耳に当てているヘッドホンからはケーブルが伸びており、それは社長の胸ポケットの中へと続いている。

「勿論その機能も実装されています。同梱予定の転送アプリケーションで簡単に設定が可能です」

「そいつはいい。そちらも見せてくれるかな」

「はい。風間君、USBケーブルで接続を」

「わっかりましたあ」

 後輩の社員がPCに接続されてあったケーブルを引っ張ってくる。それに合わせて社長がポケットの中から取り出したのは、煙草ケースより一回り大きいくらいの、クロームと透き通った緑色とで構成された機器だった。

 今まさにヘッドホンで流れている曲の名前が、取り付けられた液晶に浮かぶ。その下に刻まれているのは、『cappella』の文字。

 それこそが、ゲンキョウ社の年末の主力商品にして社運をかけた一品。『カペラ』の試作一号機だった。


 早いもので、気がつけばカレンダーは十月末を指し示していた。ゲンキョウのオフィスから見下ろせる、さいたま新都心内に作られた憩いの場『けやきの森』も、すでに紅葉を終えて葉を地面に落としつつある。

 人の体調、そして周囲の『雰囲気』を察知してその場にもっとも相応しい音楽を提供する携帯デジタルサウンドプレーヤー『カペラ』。その開発プロジェクトチームは、八月の設立からこの十月末までを、まさしく全力疾走で駆け抜けた。

 設立時から先手先手を取って入念な準備を取り付けていた東野の手腕と、亜紀を中心とした『ポ開』、ポータブルプレーヤー開発課の奮闘によるものが大きかったといえよう。


 八月のある週明け、ゲンキョウの社員達はいつもどおりに出勤し、そして、誰よりも早くデスクについて図面を引いていた亜紀に仰天したものである。

 最初の一日は、悪いモノでも食ったかと笑われた。

 次の三日は、いつまで続くかと揶揄された。

 次の週末に亜紀が仕様と図面を提出すると――皆の目の色が変わった。

 盆が明ける頃には、既に亜紀は課を引っ張る立場になっていた。新人の時とは異なり、彼女は周囲に助力を求める事を惜しまなかった。彼女自身が間違いなく成長していた事、そして東野がメンバー間のコミュニケーションにさり気なく心を砕いた事。

 そして、同僚達が、かつての兵頭亜紀を思い出した事。

 いくら改心したとは言え、彼女に本当に何も実績がなければ、誰も昨日までのグータラ社員についてなどこなかっただろう。彼等は、数年前に一人で社内で気を吐いていた彼女を決して忘れていたわけではなかったのである。

 亜紀自身、本来の得手とするのは半導体周りの電子回路である。しかし、かつて新企画のためにゼロからあちこちを周った経験が役に立った。誰が、どのくらいの、どんな仕事をすればいいのか。だいたいの推測がついたのである。

 人脈と社外の知識を豊富に持つ東野が渉外、調整、予算の確保、スケジュールの管理。亜紀が開発を。

 理想的な職務分担で、彼等はここまで進めてくることが出来た。



「聞き間違いじゃないな。従来機種より音質もかなり向上しているね。いったいどんな魔法を使ったのかな」

 プレゼンは大成功だった。社内のメンバー、それに協力してもらった一般のモニターの評価も上々。特に源田社長はすっかりご機嫌で、自分の持っていた従来のプレーヤーから手持ちの音楽をPC経由で『カペラ』に転送し、『元気の出る曲』『一人で聞く曲』などとフォルダを作り、エディットしはじめていた。

「医療機器部門の協力により、病院に納入する機器に使用する電磁波遮断技術が転用できました。これで従来比で40%のノイズキャンセルを実現しています。まだ最適な部品の配置を試行錯誤している段階ですので、今後さらなる向上が見込めます」

「……いやまったく。大したものだ。東野さん、貴方にはいくら感謝してもし足りない。私は旧弊を引きずったオヤジの轍は踏まない、と思いながらも、音響部と医療機器部を交流させることなど考えてもみなかった」

 源田社長は壁際に佇み、試作会議を見守っていた男に声をかける。

「いえ、結局私がしたことは大した事ではありませんでした。御社には最初からそれだけのポテンシャルがあったというだけのことです」

 相変わらず地味な印象の東野が述べる。夏から秋になって変わった事と言えば、ネクタイの柄くらいのものだ。そう言えばこの男、どんなに暑くても夏用じゃない普通の背広を着ていたような気がする。

「それはそうかも知れないが。この音楽を自在にシャッフルするプログラム自体は君の提案じゃないか」

 すると東野は少々バツの悪そうな顔をして、頭を掻いた。

「実は、あの時点ではまだシャッフルプログラムは発想だけでしてね。実用的なロジックは全然組みあがっていなかったんですよ」

「……と言うと何か。あのプレゼンはハッタリだったと?」

  目を丸くする源田社長。

「すみません。でも、目算はありましたよ」

  東野の視線の先を追う。

「兵頭君かい?」

「ええ。彼女なら実現出来ると踏んでいました。実際、このプログラムも彼女が殆ど独力で組み上げたようなものです」

「しかし、彼女の専門はハードだろう?」

「ええ。電子回路の設計も全部彼女が監修しました」

 じゃあソフトは他に任せておけば良かっただろうに、と源田社長が疑問を呈する。

「彼女でなければならなかったんですよ。実際、ゲンキョウ社員の中で、彼女ほど多くの音楽を聴き続けた人間はいないはずです」

 東野は、亜紀が中学生時代から、その日の気分によって無数の曲を聞き続けていた事を説明した。

「……それを、ロジック化したと?彼女にそれだけの技術力がある、と君は判断したというわけか」

「半分はそうですね」

「そう言われると、もう半分は?と聞かざるをえないな」

  はあ、と東野はらしくない曖昧な返事をして、

「もう半分は、彼女が一番音楽を愛しているから、ですね」

「……」

  沈黙が流れる。

  東野はふぅ、とため息をついて。

「やっぱりこういう事を言ってるから乾されるんですねぇ」

  柄にも無い事を言った自分を恥じるように、もう一度頭を掻いた。源田社長はからからと笑って、東野の腰のあたりをぼんと叩いた。

「ともあれ、このプロジェクトを提案し、起爆剤となったのは間違いなく君だ。ありがとう……と、礼を言うのはまだ早いな。私も年末商戦に向けて、出来るだけ各方面にアプローチさせてもらうとするよ。それから、兵頭君」

「あい?」

  プレゼン用のレーザーポインタを白衣のポケットに仕舞おうとして四苦八苦していた亜紀は、ついつい日ごろの調子で返事してしまい赤くなった。

「この二ヵ月、君はよくやってくれた。これからもこの調子で頑張って欲しい」

「あ、いやあ、どうも」

 そして、源田社長は、すまなかった、と付け加えた。

「かつて君が提案してくれたプレーヤーの件について、当時の記録を見せてもらったよ。あれだけのアイデアを黙殺してしまった当時の責任は、私にある」

「あ。いや……そんなに気にしてもらうことじゃありませんから。だいたい、その時社長はまだ社長になられていなかったわけですし。今振り返ってみれば、あんな風に周りも見ずに一人でやってたら、誰の指示も得られなかったのは当然でしょうし」

  視線を逸らしてぼりぼりと頭を掻く様は、なぜかやたらと男前だった。

「やあやあやあやってくれたね!兵頭君!」

  そこにずけずけと割り込んでくる脂ぎった声。油スマシこと赤山専務だった。

「元技術者として私も大いに興味がある。ぜひとも詳しいスペックを教えて欲しいところだね」

 古巣の技術部になど寄り付きもせず、もっぱら夜の外交に励んできた男が言った。

「んんー?これが現物かね。なるほどなるほど。詳細な仕様書はどれかな?」

 亜紀が息を吸い込み、音声化した怒気を吐き出そうとしたまさにそのタイミングで、

「失礼ですが専務。詳細な仕様については社内でも機密扱いにさせて頂いております」

  後ろからやってきた東野の落ち着いた声が遮った。追い越し様に東野が目配せする。即座に亜紀はその意味を了解した。

「では、そろそろラボから評価報告が上がってくる頃ですので。私はこれで」

  油スマシに何も言わせずとっとと退出する様は、さすが元窓際常連だった。

「何だね君は!?プロジェクトリーダーだか何だか知らないが、外様のクセにうちの機密についてどうこう述べるんじゃあないよ!」

 脂ぎった頬を振るわせて東野に詰めよる。

「構わんよ。それは私の指示だからな」

「しゃ、社長?」

  近寄ってくる源田社長の姿を認めた途端、直立不動になる油スマシ。社長は彼等の傍に拠って来ると、そっとささやいた。

「これは極秘なのだが。ここ数年、我が社の技術情報が他社に流出している可能性がある」

「な……何ですと?」

「最近、我が社の技術者が特許申請したものが、すでに他社に押さえられているという事態が頻発しているのだ。特にうちの命とも言える音質の分野でな。私はうちが他社に製品開発で遅れをとっていた原因は、まさにここにあると考えている」

「は……」

「実に許しがたい事態だ。もし犯人がいるのだとしたら、背任行為には厳重なペナルティを与えてしかるべきだろう」

「そ……それは、また……」

「そういうわけで、この『カペラ』についての情報は可能な限り直接の関係者だけに絞るようにしている。君も理解して貰えるとありがたい、赤山君」

 油スマシは盗んだ油が見つかったような表情で、

「は、と、当然の処置ですな……」

  と、呻いた。

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