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EX1話:『企業戦士 東野』13【完】

  『師走』の文字通り、まさに12月を走りぬけ、短い正月が過ぎて松が取れると、熾烈を極めたゲンキョウの社内にも僅かなりとも落ち着きが戻ってきた。

 まったく大変だった。『カペラ』は確かに自信作だったが、ユーザーの反響は予想以上に大きく、ゲンキョウは全社を挙げて、生産とサポートに追いまくられた。

 亜紀を含めた開発チームもユーザーサポートに追いまくられ、殆ど他の事を考える暇も無かった。亜紀にとっては、それは少し救いでもあったのだが。

 年が明けてもまだまだ戦いは続く。若者のみならず、大人やお年玉を握り締めた子供も、カペラを買いに来るのだから。

 さいたま新都心にあるオフィスから、コーヒーを片手に窓の外を見下ろす。けやき広場には、正月早々に降った雪の名残がコンクリートの街並みに白を添えている。

 と、そこに一つ、今ではすっかり馴染みになった紺色の背広姿を見つけて、亜紀は一つ肩を竦めた。そして、おもむろに、オフィスを出た。


「黙って出てっちゃうワケ?」

  けやき広場を通って、駅の改札に向かおうとしていた東野の歩みが止まった。振り返ると、そこには予想通り、腕を組んで仁王立ちした兵頭亜紀の姿があった。

「新年会の席でお別れの挨拶はみんなにしたつもりだったんだけどね」

「本気で言ってんのソレ?……あ、ちっくしょ。煙草もってる?」

 東野が懐から煙草を取り出す。未練がましい視線に気づかないふりをして、亜紀はそこから三本抜き取った。どちらからともなく、二人はけやき広場のベンチにかけて火をつける。寒くて澄んだ空気の中で吸う煙草はそれなりに美味かった。

「――また、別の会社に行くワケ?」

 亜紀は問う。東野は本日付で派遣を解かれ、CCCに戻る。そしてすぐまた別の会社の建て直しをはかるために派遣されるのだろう。

「それが仕事だからね」

 気負ったわけでも諦めているわけでもなく、淡々と事実を述べている。半年近い付き合いでそれくらいは亜紀にもわかるようになっていた。そうだ、こういう男なのだ。紫煙を吹き出し、次の質問に移る。

「いつぞや、夜のオフィスで約束した事覚えてる?」

 解釈の仕方によっては随分と艶っぽく聞こえる質問だが、生憎と両者ともそういった観点には欠片も思い到らなかった。

「覚えてるよ。……ほら。『可能な限り家庭を優先させる事を誓います』」

「『いかなる時も』」

「そうだったっけ?」

「そーよ」

 亜紀はやれやれと足を投げ出し、ぞんざいに組む。

「心配ねー娘さんの将来。アタシみたいになっちまいますよー?親父と和解するのに十年以上もかかっちゃうようなヒネクレ者に」

「……和解したんだ」

 東野も知らない情報である。任務開始時はともかく、任務中に部下のプライベートに干渉するのは、本来彼の望むところではない。

「年末にね。帰省して出来上がったカペラをくれてやったんよ。そしたらあのオヤジ、言うに事欠いて『驚いた。オマエにもまっとうなモノが作れたのか』だっとさー。十年ぶりにマトモに交わした言葉がソレよ?あとはもう包丁持ち出しての大乱闘よ」

 げらげらと亜紀は笑った。

「まー小難しいこと並べて見ても、結局アタシはあのオヤジと対等な場所に立ちたかっただけなんかもしんない。一人前になって、やっとアタシも、オヤジも、お互いに遠慮なく話す事が出来るようになったってワケ」

 それは良かった、などと月並みな言葉を述べる中年男の顔に、亜紀はベンチの隅に積もった雪を指で弾いて叩きつけた。

「アタシの事はいーのよ。別に。アタシが言いたいのはね、手遅れになる前にちゃんと娘さんに会う機会を確保しろってこと」

「……いつぞやも言われたね」

「何度言っても足りないわよ、アンタみたいな仕事バカには。そーすっとね、子供は誤解すんのよ。アンタが誰の為にそんなんなって働いてンのか」

  亜紀の言葉に、東野はビジネスの場では滅多に見せない、曖昧なままの沈黙の表情を保った。

「……ま、いずれにせよ、アタシが出来るのは忠告だけ。――だから。必ず忘れないで。いい?」

 東野は苦笑する。

「はいはい、わかりました」

 微笑も浮かべず亜紀が返す。

「はい、は一度で」

「……はい」

「よろしい」

 亜紀は快活に笑った。

「アンタには随分色々なモノを貰ったからね。これくらいはアタシが渡してやんないと」

  どこからか流れる電子音のチャイム。けやき広場の時計が十七時を刻んだ。ゲンキョウ社での東野の仕事は、ここに終わったのだ。亜紀が言う。

「――じゃあ、さよなら」

 様々な想いも挨拶にすれば、なんと味気の無い事か。対する東野の返答は僅かに異なっていた。

「――また、どこかで」

 差し出される右手。半年前のように、面食らった表情でそれを見つめた亜紀は、やがておずおずと右手を伸ばした。

「会えるかな?」

「会えるさ。お互い、戦場にいるのだから」

 二人は、握手を交わした。色気は無いが、多分、これでいい。


 歩み去る背中がもうこちらに振り向くことがない事を確認する。その背に向けて、亜紀は一つ、深々と礼をした。

 さあ。私には私の仕事がある。腕まくりをすると、亜紀は胸を張って自らの戦場と戻って行った。

(完)


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