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EX1話:『企業戦士 東野』08
「でサ。その後また社長直々に呼び出されてさ。激励の言葉をもらったってワケ。まー、ケツが痒くてまいっちゃったもんよ。カンベンしてホシーよね、ああゆうの」
大宮駅東口、例の居酒屋である。今日は洋酒のフェアだとかで、亜紀にしては珍しくウィスキーをあおっている。
「ふうん。それはまた大変だったね」
篠宮はと言えば、白ワインを一杯開けだけで、あとは専ら亜紀の聞き役に徹している。亜紀が知る限り、もともと酒の強い男ではない。飲めば必ず、独走する亜紀を篠宮が見守るという形になるので、少々味気ない気がしないでもない。もっとも、社内の営業の男どもの体育会系のノリにはウンザリしていたので、丁度良かったとも言える。
「おかげで最近やたらと帰るのが遅くなって困ったもんよ」
「あんまり僕らも会えなくなったしね」
「あー。ゴメンネ篠宮クン。仕事が終わったら埋め合わせするからさー」
「……いや、別にいいけどさ。忙しいだろうし」
篠宮と出会ったのが七月。この四ヶ月ほどの間、二人の仲は進展するようでなかなか進展していなかった。
万事に押しの弱い篠宮のアプローチが消極的だった、というわけではない。むしろ彼は彼なりに、会うたびに映画や食事、ドライブに誘ってくれている。
だが、亜紀の側が、最近『カペラ』の開発にかかりきりとなり、特に定時後の時間が取れなくなっていたのだ。
とは言え、亜紀にしてみればそもそも、一人の男と四ヶ月もまともに交際が続いたと言うことが、ここ七年くらいで稀に見る快挙だったりする。
「でさ、その仕事っていつごろ終わるの?」
「んー。十一月の半ばまでには量産品第一号の最終評価を完了させなきゃいけない計算になってる。欲を言えばいくらでも時間は欲しいところなんだけど。クリスマスに店頭に並ぶようにするには、工場にどんなに頑張ってもらってもこれが精一杯ね」
「あー。……そうなんだ」
質問に正しく答えてはいた。だが、それは篠宮の意図する回答と少しずれていたということに、亜紀はついに気づかなかった。
「じゃあ、十二月になれば時間が空くのかな」
「それがさー。量産品を送り出したら送り出したで、次はあの東野のオッサンにくっついて販促活動に励まなきゃならないみたい。売り出したら売り出したで、次は不具合対応に追われることになるんだろうしねー。桜が見られるようになるまではロクに外にも出れんかも知れんのよアタクシ」
メーカーが販売前にどんなにチェックを重ねても、市場に出回れば必ずと言って良いほど不具合が発生する。ソフトであろうが機械であろうが、たいがい、使う側には必ず一人や二人、作る側の想像もつかないような使い方をする者がおり、彼らがトラブルを引き起こすのである。
家電品のマニュアルを開いてみればわかるが、『食べないでください』や『火の中に投じないでください』と言った馬鹿馬鹿しいほどの注意書きや、『電源が入らないと思ったら、まずはスイッチを確認してください』と言った、基本中の基本の確認事項が列挙されている。
ここまでやらんでも、と思う人も多いだろうが、これらの多くが、過去に実際にあったトラブルの事例と対策から生まれたものである。
かくいう亜紀も、携帯電話が普及し始めた頃、酔っ払って便器の中に落としたら見事に壊れてしまい、メーカーにクレームをつけたことがある。……まあ、冷静になって考えれば、基本的に電化製品は水に触れれば壊れるものである。問題があるのはそれを大丈夫だと考える現代人の方なのだが。
「特にカペラはパソコンからの転送ソフトが付属するしね。ウェブ上でのサポートも続けなきゃいけないし、当分バタバタするのは続きそーだわ……ウン、篠宮クン?」
グラスの中の白ワインに視線を落としていた篠宮が、一つ首を振る。
「そっかぁ。じゃあしょうがない、ね」
「どしたの?体調悪い?」
「うーん。ちょっと調子に乗って飲みすぎたかな。こっちも仕事が大詰めに入っていてさ。こう見えても色々ストレス溜まってるんだよ~」
グラスを掲げておどけてみせる。
「ははは。それむしろアタシの台詞だって」
「僕はもう少し飲んでくつもりだけど。今日は最後までつきあってくれるの?」
「ううん。今日はもうそろそろ帰らないと。夜通しで回してる評価機のデータが今夜上がってくる予定なの。明日朝一で出勤して、十時の会議までにレポート一本上げなきゃいけないんだわさ。週末になればちゃんと時間取れるからさ」
ゴメンネ、と合掌ポーズをつくる亜紀に対して、篠宮はいいよいいよと手を振った。
「割り勘でいい?」
「あーもう済ませてあるから」
「うう、またやられた……」
さすがやり手の営業マンである。この四ヶ月ばかりの付き合いでの飲みの支払いはすべて篠宮が持っていた。女とは言え亜紀とて社会人。そう何度もオゴリに甘んじてばかりもいられず支払おうとするのだが、毎度いつの間にか篠宮が支払いを済ませてしまっているのである。
「代わりにと言ってはなんだけど、一つお願いがあるんだ」
「え?何?」
篠宮からの頼み事など珍しい。すると彼は悪戯っぽく笑って、
「大した事じゃないよ。今度、僕にとって憎むべき仇――君が夢中のカペラを、見せてくれないかなと思ってさ」
「まだ試作段階だよ?」
「あはは、別にかまわないよ。恋敵の顔を拝んでおこうって、それだけだからさ」
了解了解、と亜紀は手を振った。
「ん、じゃあお勘定についてはまたまた好意に甘えさせてもらいまっす。そいじゃ、今度の週末に」
「そうだね。また週末に」
店の外へと飛び出す。最後にもう一回だけ篠宮に挨拶して、扉を閉めた。
――扉が閉まる音が響く。
篠宮浩助は空になったグラスに白ワインをなみなみと注ぐと、今度は一息で飲み干した。そして、深々と息を吐く。
携帯電話を取り出し、アドレス帳を呼び出して電話をかけた。このアドレス帳に記載されている番号はすべて本物だが、それに対応する名前はすべてデタラメだ。
要は携帯の持ち主が、その本当の名前との対応をきちんと把握していれば良いだけのことである。この『業界』における、ごく初歩的な心構えだ。酒を飲んで事に当たるのは忌むべきだが、今は何故かそうしたかった。
コールを数えるまでも無い。相手はよほど切羽詰っていたのだろう、飛びつくように電話口に出た。
『大変だ、大変なことになった!れ、例の件、上が感づいたらしいんだ、その……』
慌てふためいた見苦しい中年の喚き声、それをことさらに無視する。
「おひさしぶりです赤山専務。御社も最近はなかなか活気付いているようで結構な事ですねえ」
この携帯は、組み込まれたアプリケーションを起動させるだけで簡単に音声のトーンを変換することが出来る。今、先方……ゲンキョウの赤山専務の携帯には、無機質な甲高い音声が流れていることだろう。
『茶化すのはやめろ!とにかく、Cの件については詳細なスペックがすべて開発部内で管理されている。あんたが要求したデータの持ち出しは不可能だ。せめて期限を延長してくれ』
C、つまりはカペラの件。
「ははは、その不可能を可能にするのが貴方のお仕事でしょう。そのために今の立場にいらっしゃるんですから。Cのデータについての期限の変更は認められません。明日の夜八時までに実行のうえ、例の場所へ」
『だから無理だと言っているだろう!?』
正義の妖怪に退治される寸前の偽油スマシといった態の声にやれやれと首を振る。馬鹿は扱いやすくて助かるが、それも度が過ぎると手間がかかる。
「今一度申し上げなければなりませんかね専務。あなたの『出来るか出来ないか』の見通しなど、我々は必要としておりません。我々がお願いしているのは『実行』です。履行出来ない場合は、かねてからの契約に基づき、例の書類がしかるべき所に郵送されるということになります」
『……こ、この悪党どもめ』
篠宮浩助はげらげらと笑った。無論交渉の一部ではあるが、無理に演技をする必要もなかった。
「これは専務も異な事をおっしゃる。先週の日曜日は、今まで我々が振り込んだ報酬で購入された青山の別宅で、随分とお楽しみだったそうじゃあないですか?」
『な、なんでその事を……』
棋士が手駒の動向を掴んでいるのは当然だ。そんな事もわからないのか。この『業界』からしてみれば、赤山のように能力以上の不相応な権限を持っていて、かつ物欲が強い人間は、格好のカモである。
事実、この男を篭絡する工作には一週間とかからなかった。ニ、三の高級な店での接待と、会社の名前でツケさせた領収書。
用意した罠に転がり込むようにはまりこんだ赤山を、資金面と横領罪の双方から追い詰めて、こちらの意のままに動く手駒にし、ゲンキョウの企業秘密を持ち出させる。
その上で、成功した場合はそれなりの報酬を払ってやり、アメを与えつつ『共犯』として抱き込む事で逃げ場をなくす。
有史以来、孫子以前から用いられている基本的な間諜術である。金で堕ちるべくして堕ちた人間から、感謝こそされても呪詛される筋合いなど無い。それが篠宮の論理だった。
「せっかくの役員アクセス権限、有効に使ってくださいね。では、お待ちしておりますよ」
相手の返事を待たずに通話を遮断する。赤山の判断など手に取るようにわかる。危険を冒しても機密を持ち出して報酬を得るか、事が露見して身が破滅するか。あるいは、篠宮に今までの一切合財をバラされて、やはり身が破滅するか。
その三択なら、機密の持ち出しにかけるしかないのである。全ての罪を会社に告白してケジメをつける、等という選択肢は思いつきもしない男だった。
店の中は他にも多くの客がいたが、皆それぞれの会話に夢中になっており、一人になった篠宮に注意を払う者はいなかった。だから、
「しかし」
空になったワイングラスがひとりでに宙に浮き――音もなく砕け散り、すり潰されたガラス片に化したことに、気づいた者も居なかった。
「都合のいい駒だったが、次が限界というところかな」
誰にとも無くつぶやくと、篠宮は再び携帯電話を手に取った。
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