知性について その2 (感覚をのりこなす)

 感受性的な部分がしんどすぎて四苦八苦してきた私からすると、HSPとかのカテゴライズは、「そういう敏感な自分を無駄に否定しなくて良いという社会的お墨付きが得られる」という点以外ではそれほど利点はないと思っている。

スピ的な業界では、HSP的な資質はむしろ才能だと言い、そういう人たちを励ましつつ、最終的にはそういう人たちに向いている仕事はスピ的な仕事しかないという方向に持っていき、ネズミ講と大して変わらないような怪しげビジネスに取り込んでいくというスタイルが、あからさまに意図的ではないものも含めて跋扈している。

そういう人たちの書いているものには、その人たちなりに気づきを得た結果、他の人にもそれをシェアしたいという純粋な気持ちも少なからず含まれているし、その気づきの体験にはこちらがハッとさせられる素晴らしいものもあるので、怪しげな人々だと一刀両断したいわけでは決してないのだけど、結果的に今流行っているような業態になってしまっているという部分において、なんだかどうしても私の中では完全には共感できないモヤモヤ感がある。

スピ的な人たちにかかわらず、一般的に人は自分の経験した立場からしか物事をアドバイスできない。だから、スピ的なヒーラーに人生相談すれば、その人の回答は「私はこのスピに出会ってうまくいったから、あなたも同じようにやってみたらいいよ」みたいな内容にならざるを得ないし、ヨガで人生が好転したヨガティーチャーならヨガをおすすめするだろうしで、藁にもすがる思いでスピに近づく人のうち特に仕事の悩みがあるとか、何がしたいかわからないという人の多くが、結局、怪しげヒーラーやヨガティーチャーとして再生産されていく・・・という構図になるんだと思う。

スピ系の人たち以外には相談しにくい感覚的な悩みを抱えている人はたくさんいるし、私もその一人だけど、そこへの最終的で究極的な回答がヒーラーかヨガティーチャーになるしかないというものなら、それは絶対的に変だし嫌だし断る!というのが私の中の全私が一致して持っている意見である。
 
幸運なことに、私が直接関わったスピ的な人たちの大半は、私を養成講座に取り込もうとする気配はなかった。それは、その人たちがある程度精神的安定を保てている上に中心的なスタンスが自己探求であったことと、私もまた「得たい感覚や知りたいことはある、でもヒーラーになることは断る」的なスタンスが明確だったからこその関係性だったと思う。

そういう背景から、私は私の敏感さ的な部分を「才能」と思うことにはかなり懐疑的である。というかむしろ、敏感すぎる性質はどちらかというと、肉体で例えるならアトピーとかアレルギー的な、精神の過敏・過剰反応で不健康な状態なのではと思っているし、軽減できるものなら軽減したいし、なんなら無くなってくれて結構ですと思っていた。

もう少し厳密に言えば、敏感さは直観力とネガティブ反応の2種類あって、直観力はたしかに才能に近いものだとは思う。ただ、直観力があって、それに従って生きていけている人は、本来それほどネガティブ反応に振り回されることはないし、むしろ現実世界で成功していることが多いのをこれまでの経験からなんとなく感じている。逆に、ネガティブ反応が激しい人ほど、なんだかよくわからないチャネリングとか、現実世界以外のなにかとつながりがちで、怪しげな雰囲気を醸しだしている印象である。

病的な過敏状態を「活かして」ヒーラーになれば、たしかに、普通の会社員的な仕事のストレスからは逃れられる。でも、客として相手にするのが自分と同じくらい病的な過敏状態の人ばかりの上、組織に属していたからこそ守られていた安定収入や福利厚生などを失い、より自律的なビジネス能力が要求されるという状況で、病的な過敏状態の人が快適に生きていけるのかは微妙だと思う(そして結局、スピ的な人がやっている「ビジネス講座」も受講することになるという負のループが待っている)。

それよりは、現実的な自分の身の回りの小さな一つ一つの問題に、着実により良く対処できる自分になること、例えば、いちいち些細なことに傷ついたり動揺するのではなく、その時にやるべきことをきちんと理解して実行できるようになることの方がずっと大事だと思う。なんだか正論すぎて面白みはまったくないけど、でもそうとしか言えない。そして、もしそうなれれば、今までは無理と思っていた会社の仕事に楽しみをみつけられるかもしれないし、もしくは、スピ以外の適所をスムースに見つけることができるようになると思う。

そんな風に私が正論的に考えられるようになったのはだいぶ大人になってからの話で、若い頃は自分の過敏さをどうにか感じないように逃げようとばかりしていた。

具体的には、タバコや酒といった肉体に入れる成分で感覚を狂わせる系のものの摂取である。特に20代前半までは本当にめちゃくちゃ摂取していたのだけど、敏感系の人には、これは本当におすすめしない。その時はそうしてやり過ごすしかなかったのだから後悔まではしていないけど、自分の肉体の本来の健全な働きを損ねてまで感覚から逃げたぶんのツケは、結局いつかは自分で払うことになる。

こういったものを摂取したときの感覚について少し詳しく書くと、タバコは、ハートチャクラを無理やり開かせる効果がある気がしている。ハートチャクラの肉体上の場所である肺に刺激を与えるから当然なのかもだけど、そのようにハートチャクラが開くと、その時に持っている怒りや恨みなどが一時的にはなぜか許せてしまうのである。ハートが開くと恐れも軽減されるから、何か一つの作業に集中することも容易になる(集中を妨げ、気を逸らさせる一番の要素は恐れなんじゃないかと思っている)。

タバコをやめられない人を周囲で何人か見てきたけど、そういう人たちは、ハートが深く傷つきすぎていて、そこを感じるのがしんどすぎてタバコの力を借りている人が多いような気がしている。ハートが閉じている場合、本来はそんな簡単に開けるものではないし、エッセンスなどを使って少しずつ傷やブロックを直視し修復していき、深い安心感の状態でこそ開けるものだと思うから、閉じている時はその必要があって閉じているのだと思う。それをタバコの力を使って強制的に急激に開くのは、現代社会に生きる多くの人にとっては長期的に見てあまり良い結果を生まないように思う。自分を普通に大切にできている人ならしない(できない)であろう売春的な仕事をしている人に喫煙者が多いのも、本来許さなくていい状況を結果的に許したり受け入れてしまっているのと何か関係がしている気がする。

私の場合、留学をきっかけにほぼ禁煙し、その後はパーティなど特別な時か、ものすごく精神的にきつい時だけ吸っていたけど、卵巣嚢腫がみつかってからは完全に禁煙した。実は、卵巣嚢腫になる直前に精神的にけっこう辛い時期があり喫煙量が一時的に増えたのだが、喫煙時に下腹部がチクチクすることがあった(その時はそれが嚢腫にまでなるとは思ってもみなかった)。心の痛みをタバコで紛らわすのは自分の体に痛みを転嫁しているだけだと気づいてからは、他の方法を真剣に考えるようになった。

ハートの苦しさを感じるのは本当にきつかったし、今もたまに辛いと感じる時はあるけど、エッセンスや色々なエネルギー的なものの力を借りたり、体の使い方を学んだりしているうちに、感覚に溺れきらずにメタな視点からみることにだんだん慣れていった感じだ。この、「感覚に溺れきらずにメタな視点から見る」ためにこそ、スピな色々やヨガなどの身体技法があるのであって、ごく一部の人を除いては、決して、最終的にスピを仕事にする必要はないと、私はとても強く思っている。

アルコールについても書いておくと、こちらは脳がやられてとにかく「どーでも良くなる」系の作用だと感じる。ただ、普段持っている不安や警戒心などは、やはりその時その人にとって何らかの必要があって存在しているものだから、いつまでもずっとアルコールで紛らわすのは得策ではない。私の場合、仲間との楽しい酒とは別に、一人で憂さ晴らしに飲酒をしていたのは就活の時だけだった。今思うと、酒の力を借りて自分の中の違和感から逃避して就活した結果、全く合っていない会社に入り自分を浪費しただけだったので、真正面から不安と向き合って就職浪人するなり何なりした方が、大局的に人生の軌道修正という観点でみればずっと効率的だったと思う。

タバコもアルコールも、それ自体が悪というわけではなくて、特に、もっと昔の社会で、人がまとまった人数で協力して肉体作業などする仕事がメインだった頃は、このハートを開く作用と細かいことは気にせず楽しく仲良くやろうぜ!みたいな作用でコミュニティがうまく回るということもあったのだろうし、今もそういうやり方が合っている人もいるのだろうと思う。ただ、敏感系の人に関してだけいうと、こういった物質の摂取は自分をバグらせて機能を損なう恐れがかなりあるので、特に、辛い感覚を紛らわせるという逃避目的では使用しないことをおすすめしたい。

ただし、他にどうにも手段がなくて、これらの物質が少しでも緩和剤になるのであれば、一時的な措置だと認識したうえで摂取することは、命を失うよりは全然マシだとも言いたい。できることなら今すぐ布団を引いて横になって寝てしまう方が体にはずっと有益だとは思うが。とにかく、今をなんとかやり過ごすことを続けながら、少しずつでも自分の本質的で健やかな状態へと方向づけすれば、それは決して無駄ではなくて、いつかは目にみえる結果になって現れてくる。私が過去の自分に伝えたかったことを書いただけだが、どなたかの参考にもなれば幸いだ。



 



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