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大人の階段で拾ったもの

「テツローも一緒にバイトしないか? ヨッチャンが週末に行ってる清掃会社が、人を探してるんだって」

 中学校時代からの親友であるミズチャンが、そう声を掛けてきた。
 ヨッチャンの本名は吉田である。そして、ミズチャンは水谷という名字だった。
 あっ、ぼくらは名前を「チャン付け」で呼びあっているけど、決して妖しい仲って訳じゃないんだけど……

 アルバイトの内容は、事務所ビルの床清掃だった。請負先の会社が休みの時に、そこの床を洗剤で洗う。その後、ワックスを塗って仕上げる作業だ。
 毎週、ローテーションで現場を変えながら、日曜日になるとこの作業が繰り返される。さらに年末年始になると、普段は出来ない仕事も入り込んでくるのであった。

  *  *  *

「いいか、よく見ていろよ。モップってのは、こうやって洗うんだ」

 最年長のオジサンが、大型シンクの水道栓を全開にした。瞬く間に水が貯まってゆく。そしておもむろにモップの柄を二本まとめて掴んだかと思ったら、房のほうをドブンと水中に突っ込んだ。そして、ザブザブと上下に揺すり、房を洗う。
 飛び散る水しぶき。オジサンの指導は豪快であった。洗い上がったモップは、白い陶器製のシンクの縁に斜め四十五度の角度で立て掛けられていた。
 巨大な糸コンニャクのような灰色の房からは、しきりに雫が滴り落ちる。シンクの縁に寄りかかるモップの姿は、ホッと一息ついているようにも見えた。

「それでな、絞るときはだな、こうするんだ」

 オジサンはモップの左右両脇から背後に向けて手を回し込み、濡れた房を握る。そして両腕を内側に捻り寄せ、伸ばすようにしてモップを絞り上げた。

 家で掃除なんて、ほとんどやったこともなかったが、バイトの仕事は楽しかった。
 同じ掃除であっても、何かが違うのである。それは、プロの仕事だからなのであろう。プロの仕事には無駄がない。無駄がないものは美しい。
 学校で学ぶものとは違う、社会勉強をしているという実感が、そう感じさせるのかもしれなかった。


「おーいテツロー、ちょっとこっちに来てみて」

 応接室の床を拭き終えた頃合いを見計らい、ミズチャンが声を掛けてきた。
 彼の視線は、応接テーブルの上に注がれていた。そこにはガラス製の灰皿と、同じくガラスで出来た蓋付きの平たいケースのようなものが置いてある。

 ケースの蓋が、ミズチャンの手でそっと開けられた。そこには初めて見る種類のタバコが整然と並んでいる。黒っぽい紙に巻かれたタバコは、いかにもシガレットという語感に相応しいものだった。
 ミズチャンがこちらを見て、ニヤリと笑う。

「ちょっと失敬……」

 そう言って彼は、タバコケースに手を伸ばし、四・五本ほど掴み上げた。

「失敬、失敬……」

 大人っぽい言葉づかいをすることで許しが乞えるとでも思っていたのか、ぼくもつられて手を伸ばす。
 ぼくらは互いに、ニヤニヤと顔を見合せた。その顔には、罪悪感のカケラも無かったが。

  *  *  *

 バイトが終わった夕方、小腹を空かせていたぼくらは、ヨッチャンの家の近所にある『もんじゃ焼き』の店に立ち寄ることが多かった。
 中央に鉄板がセットされたテーブルが四つほどしかない小さな造りながら、そこはなかなか居心地のよい店である。
 この日も、いつものように奥の小上がり席を陣取って、仕事の「反省会」をしていた。

 まぁ反省会と言ってもそれは名ばかりのものであり、世間のオジサンたちが仕事終わりに「ちょっと一杯やってく?」と言ってるのと同じノリの、単なる寄り道であった。

 アルバイトをすることでフトコロ具合も多少良くなっていたぼくらは、そんな大人たちの真似がしたくてしょうがない。そんな年頃なのであろう。
 ただ今日に限っては……本当に反省をするために集まっていた。

「やべぇよなぁ、やっぱり」

「うん。応接室のタバコと灰皿が急に消えちまうなんて……」

「事務室も全部、灰皿無くなってたぜ」

 ぼくたち三人の表情は暗かった。

「やっぱバレたのかなぁ。タバコ盗んだこと」

「ぅん…………」

 ぼくたちが応接室からタバコをくすねていたのは、毎回ではない。そこは、バレないように節度をわきまえていたつもりだった。だが……いやいや、あきらかにこれは犯罪である。窃盗行為に節度もヘッタクレも、あるわけがない。

「盗難対策としてまず置きタバコを撤収したとなれば、次は犯人探しかな……」

「ひぇー、高校退学だぁ」

「父さんに殴られるぜ、きっと」

「母ちゃん悲しむだろうな……」

 ぼくらは皆それぞれ、最悪の状況というものを想像していた。そして今後はもう決して盗みなんかしない、と誓い合っていた。今までの盗みがなんとかバレませんように、と祈りながら。

 ぼくたちが掃除をしていた会社が、あのとき突然タバコを一掃した本当の理由。それは健康増進法という法律制定によるものだった。そのことを知ったのは、かなり後になってからのことだったが。
 テレビのニュースなんてほとんど見ず、世間の流れに疎いぼくらのことだ。受動喫煙問題なんて言葉すら知らなかったし。

 タバコ事件のハラハラ・ドキドキも半ば忘れかけてきたある日、ぼくらはいつものように仕事の反省会をしていた。

「今日も収穫なかったな……」

 ぼくらの「収穫」とは、何か興味をひくものや新たな刺激を意味していた。
 バイト先では、何かと面白いものに出合うことが多い。家や学校では見かけない出来事や未知の体験、それらはとても新鮮だった。

「最近、大人の階段にある古雑誌もつまらんし」

「うん、真面目な週刊誌ばっかだもんね」

 清掃現場のビルの地下一階は、ゴミ処理室や空調機械室などのバックヤードになっている。階段のすぐ横がゴミ保管庫という位置関係のためか、降りきった階段の壁側には、いつも分別された古雑誌が積まれていた。
 雑誌の大半は週刊誌である。ぼくたちはそれらのグラビア・ページを、まるで日課のようにチェックしていた。もちろん興味の対象はセクシータレントの水着写真などである。
 そんな訳で、いつしかそこは大人の階段と呼ばれるようになっていた。

「ふふふ……」

「ん? どうしたテツロー」

 仲間のショボくれた顔を見ていたら、実はぼくだけ大収穫があったことを黙っていられなくなった。

「ジャーン! どうだ、これは!」

 ずっと隠し持っていた雑誌を、ぼくは手提げ袋から取り出した。

「スゲー!表紙がエロい!」

 オール・カラーのその冊子の表紙には、ロープで縛られている喪服の女性がいる。「緊縛」とか「猥褻」「淫靡」などの難しい漢字が目に飛び込んできた。

「どうしたの、それ……」

「階段の雑誌の山から溢れ落ちてたんだ」

「ヤったね! 永久保存版じゃん!」

 少しだけ、ページをめくってみる。髪をアップにした喪服の婦人と、なぜかフンドシ一枚しか身に着けていない筋肉質の男がいた。ぼくらは頭を突き合わせながらそれを見つめる。
 ぽたり…… 誰かのヨダレが音を立ててページに落ちた。

「ぅわっ、きったねぇなー」

「早く次めくれよー」

 誰かの指が次の一枚をめくる。そこには、柔肌をさらした女性がいた。
 彼女はロープで幾重にも縛られており、その様子はまるでお歳暮のハムを彷彿とさせた。
 苦悶の表情。その中に「悦び」が入り交じっているのを、ぼくは見逃さなかった。欲情をそそる……

「おいテツロー。ズボンの前、膨らんでるぞ」

「え!」

 ズボンの下に隠された、下腹部の小さな突起。違う言い方をすると、ぼくの息子。それが目覚めているのが分かった。先っちょの感覚がビクンと鋭くなる。フニャフニャだった息子が少しだけ硬くなっていた。

 息子の変化に気づいたぼく……それは息子の父、オヤジではない。けれどもエロスに目覚めている以上、もはや子供とは言い切れない。
 言うなれば、大人への階段を少しずつ登っている年頃。そんなところだろう。

  *  *  *

 冬休みに始めた毎週末の掃除のアルバイトは、なんだかんだ春休みの頃まで続けた。
 この仕事を通してぼくらは、掃除のコツ以外にも社会とはどういうものかということを学んでいた。
 床拭きモップの正しい使い方、そして洗い方。作業全般の流れの掴み方、そしてチームワーク。
 とくに組織の中では、自分ひとりで頑張り過ぎちゃってもいけないということを知ったのは、目からウロコだった。
 その一方「タバコ」の一件を通して、ほんの少し社会の裏側も覗きかけたような気がする。あの時、うまい具合に自浄作用が働いて助かったけれど。
 あと絶対に忘れられないのは、階段で拾ったエロ本のことだ。

 誰が名づけたか大人の階段…… そう、あの大人の階段をうろうろしながら、確かにぼくらは多くのことを学んだような気がする。たとえば自分のこんな変化に、ふと気がついたのだ。
 そう、たとえばすぐ近くにゴミが落ちていたとしよう。それが自分の家だったら、拾ってゴミ箱に捨てる。でもそれが学校の教室だったら……

 以前のぼくは、それを拾うことなどしなかった。わざわざ拾うのは、なんか偽善のように感じていた。でも今は違う。そんな余計なことなど考えない。ゴミが落ちていたら、それを拾ってゴミ箱に捨てる。簡単なことだ。
 それは誰のため、という訳ではない。そうするほうが心がスッキリして気持ちいいから…… ぼくも周りの人も。
 そしてあそこで、ゴミ置き場横の階段で、ぼくはエロ本を拾った。それはゴミ箱には捨てずに持ち帰った。自分のモヤモヤをスッキリ気持ち良くさせたいから…… あーこれはちょっと、なんか、違うな……
 ま、いずれにせよ、ぼくらは大人の階段を通じて少し大人になったような気がする。言い方を変えると、ひと皮ムケたということかな。
 あ、これもちょっと、変かな。

ー終ー

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