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嘔吐



お前に思想はあるか。

いや、無かろう。
いのちが極まった独楽のすむような静謐さ、あるわけ無い。

大宰は言う、「弱虫は幸福さえも怖がるのです。」
確かに頷ける。幸福や不幸に対し、命を賭けた思想を燃やすことのない貴様らにそれらが感じられる事は決してない。
「強引な勉強と強引な生活法を課す」ことのない自堕落な君達には一生あっても出逢えない静謐。
受動的であり能動的な荘厳。私達には経験しようが無いのだ。

だが我々は生きている。親不孝に嘆き、自己実現に感溺し、コミュニケーションによる敬服の念を現さない私たちはあやふやで猥褻な今を生きるのだ。

言葉の有効性・言語の有効性は何処へ、

それは我々の中、ミクロコモンスにある、多様性を履き違えるわれわれの中に存在する。
感激的であり非愛に満ち、陰惨とした物憂げな嘔吐のなかに存在する。


そうした社会に生きることを決して忘れてはならない。


此のような口調で物言えるのは、やはり大宰にある。
「人間は恋と革命の為に生まれてきた。」此れが私の思想を表すうえでの手助けだ。批判しても良い。その嫌悪を自らの主体性に変換セヨ。



私が伝えたい事は唯一つ。「自らに生きよ。自由に生きろ。主体的であれ。」此れに尽きる。
ブルジョアジーは悪なのか、「プロレタリア階級は無所有である。」のか。そうでは無い。
「民意(世論)こそが最大の法なのである。」ハイデガーのいう現存在(ダーザイン)と向き合え。ヘーゲル形而上学に抗え。文学と社会学からの真の第三の立場(人間とは何か)に思想を燃やせ。
カントー「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」(自身が自由である為に、他者の自由をも認めろ)、これだ。自由の互酬性・相互性を実現することがミクロコモンスの満足だ。私はそう考える。アソシエーショニズムの創造・想像。



マルクスが何だ、フォイエルバッハが何だ、カント、大宰、三島由紀夫(敬愛の為の非名指し)、ヘーゲルが何だ。貴様らの主張に感嘆しているのでは無い。
貴様らの主張から生まれる私自身の価値・思想に賞賛の意を送るのだ。勘違いするな。
我々は皆、生まれながらにして自由であり主体的である。そのことを忘れないで欲しい。








Ura。



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