こうぞうじんるい学~うどん県スラング~②―1

前回は、民族学・民族誌研究が抱える矛盾についてとりあげた。


民族学は歴史のエビデンスを必要としながらも、それを突き詰めていくことはできない、と。


間違わんとってほしいんやけど、これは進化主義VS伝播主義の、古くさい対立からくる矛盾とはちゃう。なんでかってゆうと、今やその2つは対立なんかしてないからや。



民族学における進化論的な解釈は、それこそダーウィンの進化論に直接影響されたもんや。


西洋の文明は人間社会のもっとも進んだモンやとされ、未開人集団は発展途上のまま現代まで続いとる、とされとる。


ほんでそれを分類したもんは、時間的な出現の順番を示してしもとるんや。



やけどな、社会ってそんな単純なモンとちゃうやん?



例えばや、エスキモーはいろんな洗練された技術を持っとるけど、社会学から言うとちょっとアレな感じやし、逆にオーストラリアはその反対やわな。こういう事例はメチャメチャあるんよ、実際。


直線的な連続性の分類だけに囚われず、色んなモノサシから見てみたら、そんなんとは全然ちがう分類ができるはずなんやわ。


ネオ進化主義もこの矛盾を克服してないとワシは思とる。


ネオ進化主義とは、その集団にいる一人一人のエネルギー使用量をモノサシとしてカテゴライズしよったモンや。


ただ、これって西洋の一時代、一場面でしか通用せんとワシ思うんよ。


そんなカテゴリーなんか全然意味もたん大規模な社会では、この指標は使えんってわけ。


ほんなきん、皆文化を分類しようとするとき、抽象によってまず分ける。そして系統樹にあてはめていくんやけど、単純に1つの文化を縦断的に分化させていくのではなく、異なる文化の中で同じタイプをみつけ、横断的にも関わりを持たせようとがんばるわけやな。


で、ある進化主義のオッサンが、


「民族学者は文化の対象を1つの種として見立て、その地理的分布や地域から地域への伝播は、自然科学者の研究方法に準じて研究せないかん」


と言いくさった。


いやいやいやwww、自然科学と一緒の研究方法とか無理すぎワロタwwwww


だってな、種に例えるっておかしいやんwww

一緒くたにすなって感じ。



自然科学では、花の種植えたらその花が咲くし、馬に種付けしたらその馬の子が生まれるんは事実やん。

いまやDNA研究によって、祖先とのつながりもわかってきとるしな。


つまり、自然科学は生殖という確実な繋がりによって、その妥当性が担保されとるというわけや。



ところが民族学ではどうや。



斧が斧を産まんやろ?



同じような、もしくは似たような道具があったとしても、それらの道具の間にはつねに根本的な非連続性があるはずなんや。


一方が他方から生まれたもんやない。それぞれが別の表象体系から出てきてるんや。


例えばやな、ヨーロッパで食事に使うフォークと、ポリネシアで使う儀礼上の食事のためのフォークは親子でも兄弟でもない。


カフェテラスでレモネードを飲むストローと、パラグアイ茶を飲むための「ボンビラ」や、アメリカのある部族が呪術の時に用いる吸飲菅は、全く別モンなんと同じことなんよ。


これを慣習で例えてみると、お金がないから老人を殺してしまう慣習と、老人の辛く苦しい期間を長く過ごすことのないよう他界への出発を早める慣習を、同じカテゴリーにいれるわけにはいかんわけ。


さらにこのオッサンは信じられんことを言いよる。


「ボクらが、いくつもの事実から1つの法則を引き出すことができたら、なんもその歴史なんか知る必要ない。例えば磁石が鉄を吸い寄せるという法則を知ることができたんなら、なんも磁石の歴史を手間ヒマかけて知る必要ないやん。」と。


あ、ハイハイ、今度は磁石に例えちゃうんやねwwwwwプークスwwwww


ワシら物理学者ちゃうんですけどw


というのも、物理学者と違て民族学者は、オッサンのゆう鉄や磁石や鉄に当たるような対象を決めるとき、対象がほんまに鉄や磁石に該当するのかどうか確かめないかんし、その確かめ方がいまだ不確実やからや。


その妥当性を担保するのは、「詳細な歴史」ただひとつなんよ。


このどうしょうもないオッサンは、トーテミズム概念においても方程式をつくり、その型枠にあてはめよった。


トーテミズム概念ゆうんは、ある社会集団と、特定の動物や植物との間で儀礼的・宗教的な関係が築かれていることや。それは、その集団の名前になっとったり、大抵は食べるのを禁止されとる。

オッサンは、この慣習を原始宗教とし、そこから進化したものが一神教なんやと主張したわけよ。

ま、でも当然そんな主張、批判がようけ出たわな。ワシも批判した奴の1人なんやけど。



何回も言よるけど、社会の制度慣習って、そんな単純なモンじゃないんやって。



そんな、自分で方程式つくって、当てはまるモンだけがトーテミズムなんやとしたら、ものすごい特殊なモンだけになってしまわん?



ワシは、そんな方程式なんかに囚われたら、何か大事なこと見逃すんちゃうかなと。やっぱり、ある要素だけからスタートして推測して研究せないかんと思うわけ。そうすると、それぞれの宗教の「詳細な歴史」なしには、トーテムがその集団にとって何を意味しているのか、知ることは出来んわけや。


はたして、トーテミズムの儀式やトーテムの名前が、ただ単に代々受け継がれてきただけの名残であるのか、はたまた彼らの世界観や倫理的・美的価値の傾向を表しているものなのか・・・・。(あ、倫理道徳や美的価値が普遍的なモンでないことは、ワシの敬愛しとる先生方が証明してくれとるで)


方程式をつくる、という点については、進化主義と伝播主義の解釈も、ようけ共通点がある。このオッサンは、それぞれの方程式をつくりそれを適用しよったけど、これって歴史学者の研究方法とはかけ離れとるわな。


歴史学者は常に、人物であろうが出来事であろうが、時間と空間のマトリクスで分けて、その個別化されたグループを研究するもんなんや。


ところが、伝播主義者は比較研究で言われる種をうち壊し、バラバラのカテゴリーのとこから取ってきた断片を集めて再構成しようとする。

そうして出来上がるモンは、よく似ただけの偽物や。


だって、時間と空間でつくったマトリックス表のそれぞれのマスは、いろんな可能性から考えて当てはめた結果であって、それらを一緒くたにしてしまえるようなモンじゃないんよ。


伝播主義者がよう言う、文化の「サイクル」とか、文化「複合体(コンプレクス)」も、進化主義者の言う「段階」も、どっちも抽象の産物や。エビデンスがさっぱりないんやわ。


あいつらは、いままでずっと臆測や思想の中で研究してきたんよ。


これは残念なことに、より謙虚で厳密な研究したローウィーさんらの北アメリカ文化の研究も当てはまってしまうんや。


彼らは、その対象の詳細な歴史を研究してはいる。


でもな、彼らもまた「仮説を立てること」や、時には伝播一元論に囚われてしもとるんやわ。


やっぱりワシとしては、その研究対象としとる文化が通ってきた、個別的・集団的な経験による、意識的・無意識的な過程について、もっと研究せないかんと思うわけ。


制度を持っていなかった人間が、どういう具体的な経験によって、発明によって、あるいは代々受け継がれてきた制度の変遷によって、また外部から流入したりして、制度を獲得するに至ったのか。



この研究こそ、ワシら民族学者や歴史学者の本質的な目的とちゃうやろか。





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