こうぞうじんるい学~うどん県スラング版~②-0

第1章   歴史学と民族学

みんな、歴史学と社会学って別物なん知っとる?

50年以上前に、「歴史学と社会学ってこんなに違うんやで!」って論文書きくさったオッサンが二人おってな。

オッサンらの論文読んでみたんやけど、まあ簡単にゆうたら社会学は何かと何かを比べる学問、歴史学はわからんもんを1個1個調べる学問ちゅうこっちゃ。研究方法が全然違うんやわな。

二人ともその点に関してはおんなじ意見やった。それぞれの研究方法の見解については違うかったんやけど、まぁそんな細かいことはどうでもええ。

さて、さっそくやが、今日の歴史学と社会学がどんな感じなんかをを比較してみよう。

歴史学の研究方法はカッチリ決まっとって、みなそのプログラムを守ってきたもんやから、学問としても盛り上がり続けよる。原理や方法の問題はナシや。

一方、社会学はどうや。

まぁ盛り上がってないということはないけど。

社会学の派生である民族誌とか民俗学とかについては、この30年の間めっちゃエエ研究が出てきたわな。なぜならワシの専門分野やからwデュフwww

ほんでも、だいぶ仲間内でケンカもあったし、仲間割れもしてしもた。つらかったわ(T-T)

そんなドタバタがあったきんかしゃん、みな勘違いしてしもて、民俗学は社会学の一部門ではなく、歴史学と肩を並べる独立した学問やと思てしもた人もおる。

そうかと思えば、歴史学大嫌い言よる民俗学者のくせに歴史学と同じような研究をしくさるヤツがおるんや。いや待ってw、ってなるやん。

ほんなきん今やもうゴチャゴチャになってききとるんよ。歴史学とか社会学とか民俗学とか、もうカテゴリーめちゃめちゃ。いやいや、ちゃんと決めとこってなるやん?

てなわけでワシ、あらためて違いをハッキリさせたろ、と思たわけよ。


この章では、あえて「社会学」っちゅー言葉は使いたくないし、使わんとく。

なんでかってゆうと、

社会学=社会科学まるっと全部

のはずやのに、ココ最近では、

社会学 = 社会生活の成り立ちやフシギについて調べる

ということなってしもとる。


でもな、そうなると社会学の研究が何に貢献されるかってゆうと、社会哲学になってしまうんや。生きる知恵探っていきまひょ、って、それちょっとちゃうことない?


そうするとワシがしよる民俗学とは全然ちがう学問になってしまう。これじゃ社会学はまるで民族誌の一部門の、さらに特殊部門ということになるんちゃうかなと思うわけ。

さらに言うと、今の社会学の研究対象になってるのは、複雑なタイプの社会組織や機能や。民族誌で大きく注目されるんはその考察やけど、複雑なだけに通常の民族誌みたいにスッキリ楽しく読めるもんになるはずがないわな。もうグッチャグチャになってしまうと思うで。

あ、そうそう。ココで民俗学と民族誌の違いもハッキリしとこうと思う。とりあえず的な感じで。

民族誌っちゅうのは、ある人間の集団の特殊性を見つけ、よう見て分析すること。とどのつまり民族誌の目標は、研究を見たらその集団の生活がドラマで再現できるとゆう所にある。


これに対し民俗学は、別々の人間の集団を比較する。そのとき民族誌を参考文献に利用するんや。


民族誌は世界中で上記の定義が確立された。

一方、民俗学は今の西欧諸国で言うとこの「社会人類学」「文化人類学」に近い。(社会人類学は歌や芸術、標識とかの研究で、文化人類学は技術の研究やから、チョット違うっちゃ違うんやけど。)




もし、やで。複雑化された先進的社会の研究成果と未開の原住民社会の研究成果の間で、共通して当てはまるもんを見つけられたとしたら。世界中すべての集団における普遍的妥当性を示すことができたら。

その時はじめて社会学は社会研究の集大成と言えるんとちゃうやろか。


ワシらはまだまだそこまで行ってないというのが正直なところやわ。



このように民族学系と歴史学のカテゴライズ問題を取り上げたわけやけど、

まとめてみると、


民俗学系の研究では、時系列的なパターンに関わってもそれぞれの歴史までは書けないこと。また逆に、歴史学のように研究するのであれば、時系列的な変化は書けないこと。



民族学はその歴史のエビデンスができないまま、過去を再構築しようとする。

民族誌ではその歴史のエビデンスがないまま現在を描くことになる。



どっちにしても、両者は50年間発展を遂げてきた中で、しばしば陥れられてきたジレンマなんやわ。





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